2011年2月27日日曜日

つぶやくことの意味

 
 おっはー!今日も元気に生きようぜぇ!題名のない音楽界を聞きながら。



 人はなぜつぶやくのか?昨日はいろいろな知識を頭に詰め込む日だった。家から一歩も出ずにただただ、知識の吸収、見聞を広める有意義な時間だった。溜まった一週間の新聞をオールチェックしたり、ゴミ捨て場にあった本を読んだり、とある科学の超電磁砲を一気に全部見たりした。そんな時間の中でひとはなぜこうもつぶやくのかということが分かった気がした。

 それはたぶん、以前にも説明した通りつぶやかなければならない状態になるからなのだ。あるものに触れた時に“あぁ、あれ”ともののあはれを感じた時に人は体の中にわき起こった感動を体の外に出さなければ気が狂ってしまう、そんな状態になるからだ。感じ入る対象は何だっていい。カラスだって、ピアフだって、初音ミクだってなんだっていい。ゴッホでも、ルノアールでも、隆でもなんだっていい。新聞の記事でも、ラノベでも、人は共鳴することを止めることはできない。いうなれば人は歌うことから逃れることはできない。ツイッターばっかりやっているとこいつ閑人なんじゃないかと思われるんじゃないかと思って、一日につぶやく回数を自分に制限していたが、それは間違っていた。それはつぶやくことを制限するのではなく、それは歌うことを制限していたにすぎなかったのだ。つぶやきに飲み込まれることは本末転倒である。それはこれからも禁欲的でありたいが、それと同時に歌うことに関しては無制限に折りにふれたときに、ところどころで詠んでいきたい。よく歌を詠む人間は心やさしき風雅な人間である。そんな風流な酔興な詩人になりたい。朝日新聞の歌壇、俳壇欄読んでいてそんなことを思った。そして今それを読んでいるのが世界で自分一人なんじゃないかという感覚にも襲われた午後一時。みんな、つぶやくだけじゃなく、もっと歌を歌ったり、詠んだりするようになればいいんじゃないかなぁ。
 
 またラノベについて。ラノベ、ラノベとバカにしていた自分がいたが、けっしてラノベはラノベそれ自体で劣っているわけではない。ただ安易な初期設定だけで話が進んでいくところがちょっと軽かった感じがして、明治、大正、昭和文学の臭いが大好きなぼくとしては、“名もなき拒否反応”みたいなのがありまして、いうなれば、ルーズベルトの一番やってはいけない恐れ、恐怖をもっていたわけで、いうなれば、食わず嫌いってなわけで、ハッとさせられたのは、最近の若者は、最近若者は、とかいうおっさんに限って若者のこと全然知らないってことなんだなってことだ言うことに気付いた。人間は人間なのである。一括りにできるものではない。ってことで、だから、それを知っているぼくはステレオタイプが大好きで、日本人の男は海外では全然モてないとか、ドイツ人はみんな無愛想だとか、中国人はみんながっついているとかね。安易な簡単なステレオタイプ、だいすきなんだよねぇ。もっとも火のないところに煙は立たないというから、あながち完全な嘘でもなく、つまり、日本人は謙虚だというのは、日本に来た外国人が謙虚な日本人に会い、それに感動した比率がたしかに多かったということであろう。常に大事なのは比率なのである。日本人にも傲慢な奴はゴマンといる。ゴーマンかましてよかですか?はたくさんいるが、その率は確かに低いんだろう。ドイツ人“イタリア人”の様に明るい野郎がたくさんいるが、全体の比率として無愛想な奴が多いからそう思われるんだろう。中国人にしても然り、孔子の子孫だっている。謙虚な奴もいることでしょう。傲慢な奴もいることでしょう。それが人間なんです。それが多様性なんです。ぼくの大好きなね。だから最近の若者、若者って言ってるうちは、メディアに踊らされてるんだね。モンスターペアレントもしかり、いい親だらけだよ。ふつうの親だらけだよ。読んでる君の家の様に。ふつうなんだよ。医者も、先生も、親も、中国人も、みんな普通なんだよ。基本的に。ただ人間はおりにふれ、珍しいものを見た時には感動してしまうから、それがものすごく印象に残ってしまって、結果、ステレオタイプが形成されて、自分の真理を見失ってしまう。大切なものがどっかいって舞うよ。ってことになる。自戒自戒。

 ということでこれもごたぶんにもれず、ラノベもそうなのである。昨日はとある科学の超電導砲を一気に全部見たわけだが、やっぱ面白かった。ハルヒも、らきすたも、けいおんも面白かった。今まで見てきた。オタクだから、それを好む人がオタクだからという理由で勝手に変なもの、珍奇なものと思ったらあかんね。とりあえず、食べる。食べてみる。しっかり咀嚼して味わってみる。原住民にだされた虫の料理も笑顔で喜んで食べる。丸飲みにせず、口中で味わう。特大いも虫の口の中でむっちゅっとつぶれる感覚を味わう。鼻で息をする。そうすると、あれ!なんかクリーミーな感じがする、なんかちょっとうすいクリームシチュウみたいな?といってまた、もう一個食べる。原住民もぼくらもみんな笑顔で楽しくワイワイ。それが本物の“理解されるよりは理解されることを”である。アッシジの聖人が述べた誓いの言葉である。これこそがあるべき藝術鑑賞なのかとおもわれる。そしてただ、もし口に合わない時は遠慮すればいいだけのこと。決して相手を貶めず、ただ自分の口に合わないと言えばいいだけのことである。貶めて、蔑視する必要はない。どんな時にも相手に対する敬意を忘れてはならない。それがあれば何をやったって、何を見たって、何を聞いたって、うまくやっていけるであろう。
 
 ラノベにはラノベの真理の語り方がある。純文学には純文学の真理の語り方がある。どちらも“もののあはれ”を生み出してくれる。涙が寄り添ってくれる。それにかわりはないのだ。

 人は歌わずにはいられない。いいものはいい!と誰かに伝えたい!叫びたい!ただ体の中のこの感動を外の世界に出したい。そう思わずにはいられない。

 あぁ、神様!この世界の多様性に

ありがとう

 やべ、文末、ありがとう作戦にはまりそうだ、、、


 本日の歳費:金麦170ぜいたくしちまった、サバ水煮100、じゃがりこアンチョビ128、サンマ蒲焼100、銀座カリーパン88 計586円 也

2011年2月25日金曜日

平成24年度東京藝術大学美術学部藝術学科入学試験“ウィキリークス”問題

 
英語

 次の文章を和約しなさい。

1. Perhaps the most important aesthetics of the twentieth century appears here newly translated, in English that is for the first time faithful to the intricately demanding language of the original German.The culmination of a lifetime of aesthetic investigation, Aesthetic Theory is Adorno's major work, a defense of modernism that is paradoxical in its defense of illusion. In it, Adorno takes up the problem of art in a day when "it goes without saying that nothing concerning art goes without saying." In the course of his discussion, Adorno revisits such concepts as the sublime, the ugly, and the beautiful, demonstrating that concepts such as these are reservoirs of human experience. These experiences ultimately underlie aesthetics, for in Adorno's formulation "art is the sedimented history of human misery."

2.Middle Ages were followed by a period of great progress and changes, The Renaissance. The people of the 1400s proclaimed a new age and the rebirth of civilisation. Achievements were made in both arts and science during the period. The people in the 1400s claimed that the Middle Ages were a time of cultural and scientific decline, - The Middle/Dark Ages- between the time of ancient Europe and their own time. The Renaissance was characterised by a great interest in learning and education. People studied the ancient works from Greece and Rome, and they admired ancient culture, science and art. The renaissance people felt that the study of humanities enriched their lives and that a person with proper education could enjoy a fully rewarding life. Humanities means people and the human society (history, literature, grammar and rhetoric). The study of medicine and theology were still important subjects. During the renaissance an interest in individuals grew. The nature of individuality was studied. In the Middle Ages men and women had been a part a whole and no particular interest was aimed at the individual.


 
世界史

1.カール大帝の政治的、及び文化的功績について述べよ。

2.唐代の文化と宋代の文化を比較せよ。

3.第二次大戦から現在に至るまでの世界情勢をそれに関わる歴史的な藝術作品を二つ以上挙げながら述べよ。

 
 
 二次試験
 小論

問題 人類が後世に残す藝術作品を一つだけ選ぶことになった場合、あなたの残す藝術作品を具体的に一つ挙げ、その論拠を述べよ。また一つだけ残す藝術作品の大きさ、重さは自由である。



 今日行ったところ;東京大学本郷、上野ヨドバシカメラ、新宿世界堂、新宿御園

本日の歳費;カメラ電池1260充電池売ってないバージョン、エースコックにけつっ105あんまうまくなかったかな、いや、もうおなかいっぱいやったのにたべたからかも、やまざきどーなつ105、さいきんこれすきだな、おれ、だってこれふつうのとこで買ったらけっこうたかいんだもん。世界堂イラストボード、わりびきけんつこて77、りぷとんゆずてぃー105うまし、だいがくいも105C、  計1775円 也


 

批評、かっこわるい

 批評はかっこわるい。
近来、批評とは他人のふんどしで相撲をとることだと思われている。
批評とは他人の作品を使って自己を語ることだと思われている。
批評とは藝術界に寄生する虫である。高階秀爾は藝術界切っての特大サナダ虫である。
批評家とはダンゴ虫やミミズ、バクテリアといった藝術界の分解者である。
目立たぬ存在ではあるが彼らがいなければ世界は回らない。
そうだ。それでいい。間違いない。返す言葉もない。

 こんなイメージが流布したのはいつのことからだろうか?
かつて批評家は太陽であった。教養の化身であった。尊敬の的であった。
そんなイメージは露と消え、すべてがフラットと化した。
藝術学科の存在意義が重箱の隅を突くことを生業にしはじめ、
フィールドの外で野次を飛ばすだけだと思われてからずいぶんと時間が経った。
どんな批評の傑作もその作品の前では児戯に等しい。
この事実の前にはいかなる「批評」も嘘にならざるを得ない。

 だが、人は口を噤むことはできない。感じたものを誰かに伝えたいと思った時、
それが「ことば」となり、「批評」になる。
“いい”とか“わるい”とか、主観を通じた客観を語る。
いうなればそこに剥き出しの自己が表れる。
作家が感じたことを作品にするのと同じように、
批評もまた自己を語るだけのことである。
感じたことを作品にすることに何の変わりもない。
ただ、感じ入ったその対象が人間の作った世界であっただけだ。
世界に感じ入ったのは作家も批評家も同じことである。
ここでは作家の世界に感じ入ったものたちの内部世界が披歴される。
 
 ようこそ、鑑賞者の虫の世界へ。


 本日の歳費;国産豚バラ肉149、みっくすもやし105、たまねぎさらだ105、やまざきどーなつ105、やきにくしょうゆたれ105、ころっけ50 計469円 也

2011年2月24日木曜日

真理のベールに包まれて

 おっはー!といってももう12時回ったね。昨日はサロメ行ったり、旧交を温めたり、友人の作品の批評をしたりと濃い一日だったね。まじかよ!の連続だった。


たくさんあったが、うん、サロメにしよう。サロメに関して述べる。少しネタばれありである。

オスカーワイルドのサロメ、ヘロデ王のわがまま娘サロメが賢者ヨハネの生首に接吻する残酷だが美しいと感じざるを得ない物語。自分の意のままにならない不動の相手との絶望の果ての恋のお話、かわいさ余って憎さ100倍の愛憎悲喜こもごもの劇である。

その日、招待券をゲットしたレバノンのかわいいプリチーな女友達と目黒のタイポグラフィーの展覧会を見に東京庭園美術館に足を延ばすと、なんと閉館日で、まずは今日初めのまじかよ!

 急遽の予定変更で茂木さん絶賛のサロメを見に行くことに。

 東京文化会館について当日券を買おうとしたら、学生席は既に売り切れで、なんと8000円の席しかあいておらず、本日二度目のまじかよ!

 でもここまで来たし、こんな機会は滅多にないはず、私淑する茂木さんも絶対見に行け!っていうぐらいだからと、勇気を出して自分へ投資した。彼女も一緒に見てくれるらしい。彼女の分を少しでも出してあげたかったが、ちょうど8000円ジャストしか財布の中になく、払うことができなかった。かっこわる!俺!

 席に向かう途中で、彼女が言ったのはここの内装はひどい、と言っていたのが印象的だった。ただのえんじっぽい色、一色だけで塗り込められた壁紙に日本のだめさか感が漂っていて、しかも、ここいちおう日本の浅いかもしれないが伝統ある東京国立文化会館だろ!?と思って本日三度目のまじかよ!だった。

 席に着く。あたりが徐々に暗くなり、幕が開く、幕が開いた瞬間にハッとした。まじかよではない。ハッとしただけだ。ふつうのサロメじゃねぇ、なんか衣装がマトリックスになってるし。最近はやりの現代バージョンってやつかと思っていた矢先のことである。

 なんか舞台の端っこでフェラチオさせてねぇか?と思い、よく凝視した。え!っえっ!!な!まじかぁ!うっへぇ!気まずい、、、まじかよぉ!!!!これが本日4度目のまじかよであった。

 舞台は進む。各所ところどころで局地的に事件が起こる。見てる方はどこを見ていいのやら視点が定まらない。もんずほぐれつするシーンもある。オッパを揉んだりしている。集団で強姦するようなシーンもあった。そして本日一番のまじかがやってきたのである。死んだ男を男が後背位で強姦するというシーンがあった。10人ぐらいが密集しては手を大きく開き、リズムで挿入している当事者の快感を表わす身体パフォーマンスは圧巻だった。圧巻だったが今日はこのかわいい女の子との初デートである。はつでーとでこれかぁあぁぁあぁぁあぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~ぁぁあ!!!!!まじかぁぁあぁぁぁぁあぁ~~~~~~~~ぁぁぁぁぁあああああぁあぁぁぁあああああぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁ!!!東京文化会館なだけに、三島と縁が深いのかぁあっぁああぁぁぁぁああぁぁぁあ!!!!それでも武士かぁぁぁぁあぁああああぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁ~~~~~~~~~~~ぁぁぁぁ~~~ぁぁぁぁぁああああぁぁっぁぁぁぁぁあぁあ!!!!!!!!


 かくして傷心状態のまま、舞台は終わった。彼女の方を向くと、茫然と座っている。目の焦点があっていない。かける言葉が見つからない。彼女の眼の前で手を振ってみる。お~い、誰かいるか~い?彼女はにっこりとだがうすら笑いを浮かべてくれている。気を使ってくれているのかしらん。感想を聞くと、気持ち悪かった。という。けど、見れてよかったともいう。少し気持ちが悪いというので上野の公演を散歩した。お互いに何も言わず歩いている。気まずい雰囲気が永遠と流れる。不意に彼女の方をみると、彼女は泣いていた。ぼくは意味がわからなかった。気持ち悪いと涙との相関関係があまりにもかけ離れていたからかもしれない。ぼくはただ茫然と立ち尽すことしかできなかった。どうしたの?という野暮なことしか言えなかった。理由はわからないという。ただ、だが僕は彼女が羨ましかった。実に心から。やられたっ!!!と思った。彼女の感受性を欲した。素晴らしい藝術作品は見た瞬間、ただぼーっとさせる。見た本人はそのインパクトを処理できないから、ただただ沈黙してぼーっとせざるしかできないのである。ぼーっとの中に真理がある。ぼくはただ、彼女とのデートのことを考え、まじかぁ!まじかぁ!まじかぁ!しか劇中も考えていなかったのかもしれない。けれども言葉もあまり分からない彼女の中にはぼくとは違う何かを感じていたんだろうなと思った。そしてそれが今、時間差を伴って噴出したのだ。意味もなく、理由もなく、真理のベールに包まれて。ここに本日一番のまじかぁ!!!があった。人生のまじかぁ!!!は常に日常に溢れている。そしてそれが予期せぬところからグサッと刺されたときに、刺されてから気付くものなのかもしらん。素晴らしい藝術作品はそれを体験した本人の中で、本人とともに成長するものである。ぼくの中でもその作品が成長して、いずれえもわからぬ涙の形をとって噴出するかもしれないし、そうなることを期待したい。たとえ、自分が気づかなくとも違った形で噴出するのかもしれない。藝術は奥が広く、深い。そして訳もわからないのに、ただただ、ぼくは彼女の流した涙の為に一生涯を捧げようと本気で思った。そこに意味も理由もなんの脈絡もない、それなのにそんなことを自分に誓った。そんな自分もまた真理のベールに包まれていることを知った。

 その後は旧交を温める飲み会に出席し、誰誰が結婚したとかの、現状報告的な、小(みに)まじかぁ!が3,4個あった。


 ますます藝術とは何かを考えさせられる1日だった。すべての物事に意味があり、アクシデントすらも何らかの意味があるんじゃないか。とそう思える1日だった。


 真理のベールの中にあるもの、それを一生涯の仕事としたい。


 本日の歳費;飲み代1000、するめ105 計1105円 也

2011年2月23日水曜日

ちいさな商店の流れは絶えずして 後篇

 おっはー!シュリンクプレーリードッグ君!今日は昨日の続き。


 至るところに100円ローソンや格安スーパーがあるのは貧乏学生としては大変心強く便利なことだ。だが本当にそうなのか?俺はずいぶん懐疑的になった。

 100円ローソンに寄ってみたけれども、今日はとりあえずは大丈夫だと思って何も買わずに店を出て家路に着いた。出る前に食べたチャーハンの素を使って作った大盛りチャーハンが胃の中にあるからだろう。一気にどか喰いするよりも間をおいて食べると腹もちもいいし、胃に一気に負担がかからなくなるから健康的らしい。空腹という極上のスパイスは味わえなくなるが、その適度な満腹感もまた格別なものである。そんなことを思いながら帰る矢先のことであった。

 千と千尋の神隠しを思わせるようなたたずまいのちいさな個人商店があった。あれ?こんなのここにあったかな?と思い素通りしようとしたが何か惹きつけられる。時刻は午後5時半ころか、いつもここをこんな時間に通ることはまずなかった。基本的にスーパーの弁当が半額になる時間にならねば外は出歩かないし、学校から帰ってくればだいたいそんな時間な訳である。だから夕飯時の、カレーののにおい薫る時間帯に外出するのはここに住んで一年が経つというのに初めてであった。いつでも行ける、は永遠に行かない。それが人間というものである。東京に住んでいるの人間は東京タワーに一生行かないのとおんなじように。そして自分の住む地域のことは暇にならなければまず知らないだろう。自分の住む地域の名の由来や成りたちを調べて知ることは普段のこころをなくすような忙しい状況下ではまず着手しないであろうことがらである。自らの住む地域のことを知っている人間は余ほどの暇人か、もの好き、はたまた知的好奇心に優れた賢者であろう。いずれにせよ、自分の住む地域を知ることはいいことだ。もっとも知るには閑がなければならぬわけだが。まぁ、いい、とにかくそこにちいさな個人商店があった。

 引き込まれるように中に入る。周りはあまりに無造作に野菜、果物がぎっしりつまれているところもあれば、スカスカに置いてあるところもある。人はひとりもいない。通路の幅は人二人がやっと通れるくらいの幅だが、奥行きが長い、やけに長い。どうやら道一本隔てるように貫通しているらしい。陳列棚をさっと物色して見る。バナナも、トマトもちと高い。ニンジンもシイタケも若干割高な感じがする。すぐそばの、といっても真裏の格安スーパーと比べればやはり高い。これではかきこみ時だというのに、客がいないというのも納得できるなと思っていると、奥から元気な、いらっしゃい、という女の人の声がする。きょろきょろしながら、歩きながら、そちらを向くとちいさな背の低い老婆がニンジンを千切りしている。その向かいにはかっぷくのいい、だけど頭の毛は全体的にちょろっと生えている80歳以上と思われるおじいさんがレジ越しに座っている。おばあちゃんは割烹着を着ている。おじいちゃんは紺の擦り切れた、うちのじいさまが着るような安物のジャンパーを着ている。おそらく夫婦であろう。長年連れ添った感が漂うている。入口には野菜、果物が並べられ、奥に行くとお菓子やジュースのコーナーがある。こんばんわ、と軽く会釈する。そうして奥まで物色する。きょろきょろ物珍しそうにみるのは失礼かもしれないから、なにか探しているように物色する。全体的に滅びゆく田舎のスーパーのにおいがする。

お盆に帰る、俺の実家の田舎にはこんな店がよくある。大企業の安さと物流には勝てないと多くの店がシャッターを下ろした。一年ごとに徐々に個人商店が閉まっていくのを何とも言えない、平家物語の絵巻ものを見るように眺めていた。自分では何もすることができない。ただ傍観者として沈み行く太陽の中、車の窓を全開にして、田んぼのにおいを嗅ぎながらかつて栄華を誇ったものたちの残照を流れゆく景色の中で眺めていた。滅びゆくもの達、消えゆくもの達。かつてここにじいちゃんの、ばあちゃんの店があったと。誇らしく孫に、ひ孫に語ることだろう。店をはじめるにはずいぶん勇気のいることだったろう。周囲の反対もあったのかもしらん。それを妻と二人三脚ではじめたのかもしらん。店の危機も何度もあったことだろう。そのたびに妻とともにその苦難を乗り越えてきたのかもしらん。家族ができただろう。離婚の危機もあったかもしらん。たくさんのお客も、人も集まっただろう。店が地域の溜まり場、情報交換所になったことだろう。その店がなくては地域生活もままならなかっただろう。そこには店を潰してはならぬという、自分が地域を支えているんだという自負があったことだろう。売り上げも伸びて、バブルが来て、きっとたくさん儲かったことだろう。お金がザックザックとはいってきたことだろう。この世をば我が世とぞ思う、望月の、そんなきぶんだったのだろう。しこうして、栄華は続かぬもので気付けばバブルは崩壊し永遠の繁栄にも陰りが見え始めた。日本経済は長きに渡り停滞し、その余波もたぶんに味わったことだろう。そして昨今のリーマンショックがあった。近所の個人商店が次々とシャッターを閉める姿も見てきたことだろう。それを妻となんともいえぬ気分で明日は我が身と今のような薄れゆく夜の帳が下りるころに何度も何とも言えぬこの“あはれ”な気持ちを味わったことだろう。店はすべてを見ていた。この今となっては老夫婦の若かりし頃の思い出、家族が、店が繁栄していくすがた、そして衰退してすがた、そのすべてを見てきた。聴いてきた。感じてきた。店は名もなき老夫婦のかけがえのない数多の思い出を抱きしめている。今も、昔も、そしてこれからも。先祖の墓を目指しながら、流れる景色のなかでそんなことを思った。

そして今もまた、同じものを俺は見ている。自分もまたこの滅びゆくスーパーを滅ぼさんとしている者なのだ。その一員なのだ。だが安いものをやっぱり買ってしまう自分がいる。水は低きに流れ、人の心もまた低きに流れる。我もまた同じ。低きに流れる。奥の方に行くと100円ローソンで売られているものが100円ローソンより高く売られている。それに気付いた瞬間、お兄ちゃん、なにかさがしものあったらゆうてな、とおばあちゃんが声をかけてくれた。もう、何も買わずしてはこの店を出ることはできない。奥の方にはきっと孫娘のものであろう。真っピンクの補助輪の二つ付いたプリキュアの自転車がある。なんて哀愁をそそるんだ。うぅうぅぅううぅぅ。泣ける。泣けてくる。あげものが目にとまった。メンチカツは100円、コロッケは60円だという。ではではとメンチカツを買った。支払いはおじいちゃんのレジ。500円をだしたらそのまま100円と打たれレシートが出てきた。はいっと渡され、、、えっ??俺今500円だしたよな!?と止まって思ってたら、んあ?ぁあ500いぇんか。と言って400円おつりをくれた。手はゴッホのジャガイモの人々以上にごつごつしていた。ところどころささくれができていた。ところどころ赤チンが塗られていた。あのおじいちゃんのごつごつに、あのおばあちゃんのしわしわの手におれは真理をみた。大切なものは目に見える時がある。“もののあはれ”とはこういうことです。


そうして家路に着いた。帰って冷えたメンチカツをほおばりながら、うちのじいさま、ばあさまは何してんだろか?元気やろか?と思いを馳せた。

すべてのほろびゆくものたちへ


ありがとう


本日の歳費;ちきんらいすもと105、おしるこのもと105、ぐれーぷふるーるじゅーす105、かっぷてんぷらそば105、きゃらめるぱいのみ105
 計525円 也

2011年2月22日火曜日

ちいさな商店の流れは絶えずして 前篇

 おっはー!しんごままは今日も元気!おでかけチュッチュしてくれる!今日も9:14分スタートよん!


 昨日は何か買おうと夜の五時半ころに買い物に出かけた。自転車に乗ろうかと思ったが歩いて行った。なんだか歩きたい、そんな時が人間にはたまにある気がする。二本の足で大地に立ちたい。そんな気になる日がたまにある。昨日もそうだった。おととい買ったパスタの素がまだあるから、そんなに買わなくてもいい。節約節約、そんなことを思いながら100円ローソンとは、いつもとは違う方向へ歩き出した。大通りは車があって歩くのはあまり好きではない。遠回りになっても閑静な住宅街を歩く方がいい。昨日もそのたぶんにもれず、盛り場へ行くまでは閑静な住宅街を通った。

しかし、いつもと逆方向へいったにもかかわらず、また100円ローソンがあった。毎日100円ローソンや安いスーパーの半額になったものしか買っていない気がする。生活必需品は半額にはならないけれども、半額になるものは良く買う。昨年の10月になるまで一日1000円で暮らしていた。一日1000円で暮らしていることを誇りにしていた。だれもこれ以上安くはすごすことはできまい。そう思っていた。だが10月に自炊を覚えることになった。それまではすべて毎日、スーパーの半額弁当で過ごしていたから、食器なども、フライパンも使ったことはなかった。4月からのひとり暮らしから10月までずっとそんな感じだった。だが炊飯器を手に入れてから生活は一変した。米は5キロ1500円くらいで買える。1500円は一日1000円で生きる者にとってはけっこうな出費だ。投資という考えはけちには少し難しい。長期的視野に立たないとできない行為である。勇気をだして買った。変化を恐れてはならない。変化が合わなければ変えればいいだけのこと。とりあえず変化してみるのがいい。その日からできることが格段に増えた。まず食の多様性。ご飯はいつもスーパーの弁当のおかず付き弁当でしかお目にかかることができなかったわけだが、今では自分の手元にあり、本気を出せば40分くらいで炊くことができる。ご飯があるだけで食は広がる。たまごかけごはん、カレー、ふりかけ、お茶漬け、などなど、世界は大航海時代へと突入した。素を買ってくればチャーハンだって作れちまう。すげー、しかもうまいし。こうして私は遅ればせながらひとり暮らしを始めて半年が経って自炊ということを覚えたのであった。そうするとなんと、一日500円でいけることが判明した。自炊は食の多様性とともに、経済的にも優しかった。自炊万歳!なわけである。

 自炊をする経済的に貧しき者、もちろん私自身は日本に生まれた瞬間、世界的に見ていわゆる“勝ち組”だと思っている。いや、いううなればこの世に生を受けたというだけで“チャンピオン”だと思っている。精子が卵子にたどりつくまでの長く厳しい戦いに勝ち残った最高に運のいい奴だと思っている。神に感謝!まぁ、心はと~~~っても豊かだけど、ちょっぴり経済的に貧しいぼくちんにとって100円ローソンや格安スーパーは欠かすことのできないパートナーである。であるからそれがたくさん身近な所にできるのは大歓迎である。そう思っていたわけであるが、、、、


 現実はそんなユートピアな話ばかりではない。私が藝術家になったのにはわけがある。その理由とともに明日へとこの話を引き継ごう。

 続く  


本日の歳費;メンチカツ100 計100円 也

 このメンチカツにすべてがある。それではまた明日。

2011年2月21日月曜日

こもること

 しゅわわわ~~~~ん!!!今日も元気だ!いってきま~すっ!9:14分スタートなう!


 最近家から全く出ない。世界を動かす作業をしているためだ。実に孤独な作業である。誰とも話さず、一人作業に打ち込む。正直な労働者の様にただ愚直に愚直に、励み努むるだけである。

 沈潜、このことばのなんとふさわしいことか。独りにならなければやはり、偉大なものは生まれない。孤独との戦いの果てに大きな業績が待っている。口で言うだけではだめだ。やはりブツを見せねばならぬ。まず、ブツありき。話はすべてそこから始まる。そこが最低限のスタートラインだ。だがそのスタートラインで一般的に俺はゴールともなる。まぁ、いうなればファウストだ。まぁ、いい。仄めかすのはここまでにしよう。仄めかしこそ、無限の秘密なのだから。天心が言ってたよ。

 23歳の頃の日記を読んだ。文体自体はまだまだなものの、考えてる内容はいまよりもぐっとエッジが効いていた。浪人の頃の方が思想的には優れていたのかもしれない。自分で学ぶ時間があった時の方が考えが深化している。大学に行ってすこし萎えたきがする。そう考えると大学とは何のためにあるのだろうかと疑問に思った。やっぱり大学とは人生さいごのモラトリアムディズニーランドなのかしらん。遊びためにいく場所なのかもしらん。大学は当初、私がオリエンテーションで教授たちの前で喝破したように、やはり大学はさぼるためにあるのだとひしひしと感じた。大学はさぼるための機関だ。やはり先見の明があった。浪人生活はダテじゃない。実に大いなる肥しであった。もちろんさぼるの意味を取り違えないように、大学をさぼるとは、二度寝をすることではない。毎日合コン三昧というわけでもない。“プライオリティー”が変わる、ということだ。学校の授業よりも、大事な何かに出会う場所だ。独りでも、ひっそりとでも打ち込めるような、そんな人生のコンパス、かまたは肥しに出会うということだ。だからそれゆえに、三四郎とか、春樹だとかいうように、大学にはまったく行かなくなってもいい。授業もぐっと減らすべきだ。そうすると肩の荷が下りたように楽な心地になる。楽な心地になって、のんびりしなければ真の学問はできない訳である。

 学問は独学である。実に独学である。当代一流の人物はみな独学である。

 独学は怖い。これであっているのかだれも答えてくれないから。すべての選択が自分に迫ってくるから。進むも勇気、退くも勇気だから。独学は毒学にも、抱く学にもなる。独学は学びて時に之を思い、思いて時に之を学ばざらば、即ち危うしなものである。リスクを獲らなければどんなリターンもない。これは正負の法則である。哲学の第一原理というよりは、真理の第一原理である。

 引きこもれ!諸君!エッジの効いたアイディアは流浪の時代にこそある。不遇の時代の中にこそ君の真理がある。それを見つけられたものだけが真理の階段を昇ることができる。いやぁ、今のドブの中にいる君よ、えぇ、幸せじゃないか、えぇ、君はいま、実に時代のエッジの先端にいる。こんな機会は得ようと思っても得られるもんじゃない。長く漂白した私が言ってるんだから間違いないぜ。いまは泥にまみれよう。あとは昇るだけだから。昇って、昇って、龍になろう。ともに。

 それにしても昨日は久々にたくさん本を読んだ。特に昨日は江國香織尽くしだった。いやぁ、軽いね、彼女の小説は、実に軽い。アラフォー女の欲望を刺激するのに巧みだね。官能的でもなく、かといってサラっとしすぎたていない。その軽さが時代にマッチングしたんだろう。いやぁ、実に軽かったな。ふんわりした感じ、カルピスを雲にして、その蒸気を食べる?味わう?鼻孔で食べる感じの小説だったね。まぁ、でも学んだ。彼女のDNAは俺のDNAの中にとり入れさせてもらいました。

 あぁ、あと金原ひとみの文章が俺の文章に似ていたのはちょっとショックだった。俺がオリジナルなのに、あっちが先に出たからあっちがオリジナルになるのはなんだか癪だが、今までさぼってた俺も悪い。まぁ、いいや、俺の文書は誰にもまねることができやしねぇんだから。安心安心。なはっ!

 今日読んだ本;リラックマ生活、ぼんやり記念日、ぐうたら休日、うたたね気分、小さいことにくよくよするな リチャード・カールソン、年収200万円からの貯金生活、お金がなくても平気なフランス人 お金があっても不安な日本人、モテの極意59、 以下江國香織 東京タワー、神様のボート、がらくた、すいかの匂い、ウィルハースの椅子、いくつもの週末、薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木、号泣する準備はできていた、流しのしたの骨、都の子、赤い長靴

 本日の歳費;ミックスサラダ100、完熟トマト仕立てのミート89、洋風仕立てのコンソメキノコ89、メープルクッキーアイス109、着んの納豆78 

 卵かけご飯一杯でイケた気がするが、メープルアイスが食べたくなったため買いにいくも、1万円しかなかったので、それだけだとなんか申し訳なかったので明日の分も買っておいた。

 計465円 也

2011年2月20日日曜日

プリンシプルをもって

 今日も元気だ!ロケットダッシュ!シュウィ――ん!キノコキノコキノコ!マリカー!64!64!7:41分スタート!


 白洲次郎、占領を背負った男 を読んだ。次郎はカッコイイ。名前が平凡パンチだが、やったことはすごい。唯一の従順ならざる日本人とGHQに言わしめた男。いいね。うん。とりあえず、彼から学んだことは、やはりどんな時にもプリンシプルを以って事にあたれということだ。これがあればどんな人生の局面を迎えようともうまくやっていける、そんな気がした。後悔は無いのだ。それが一番大事なのだ。大事マンブラザーズ!以下に次郎の気に入った言葉を記しておく。
 
  difficult japnese 扱いづらい日本人
 
 人間は地位が上がれば上がるほど役得をすて役損を考えろ。
 
 一流品はそれにふさわしくない社会的地位にない人間が身につけるべきものではない。
 
 プリンシプルを持って生きていれば人生に迷うことは無い。プリンシプルに沿って突き進んでいけばいいからだ。そこには後悔もないだろう。

 次郎のスピリットはしっかりと俺の中に継承されている。もちろん次郎だけではなく、稲造だって、漱石だって、好古だって俺の中にいる。

 
 また、カンサンジュンの未来授業を見た。東京FMの主催。その中で面白いことをいっていた。最近の日本人の学生は企業することを全く考えていないというのだ。それはカンさんの周りの学生だけなのかもしれないが、それは全体的に見てそうなのだろう。企業するにしても、融資が受けられない、という意見が学生から出ていた。日本は担保を回収できるか、それありきで、アメリカではそのマーケットで確実に回収できるかで融資がきまるらしい。日本のノー・リスク社会はここにもすべてつながっている。

 
 あぁ、そうなんだと思った!日本のすべての問題はすべて、この波風立てないように、穏便に穏便にとする臆病で、現状維持を国是とするノー・リスク万歳という風土病が悪しき宿瘂として存在していることが問題だったんだ!と気付いた。

 あれやっちゃだめ!これやっちゃだめ!のマニュアル化が全ての分野で起きている。起業してどうすんの?倒産したらどうすんの?それで食っていけんの?悲観主義の連鎖、ネガティブなところだけに目がいく病は根が深い。

 自分で考える学生が減ってきているらしい。だがそれはいつの世も同じ。先生の言ったことを座ってただメモして、それをテストで書いて100点をもらうことに一喜一憂する。それを思考停止学生という。次郎の留学したイギリスでは自分の考えのない答案は限りなく低い点数を付けられる。本当の学問は自分で考えることを始めた人間にしかできないものである。日本の学校ではそれを教えてくれないと多くの学生は思っているがそれは大きな間違いである。考えることを人は教えることができない。考えることは常に自分主導で始まるからだ。大学、学校に考えさせてくれる授業を期待すること自体がお門違いである。そんな授業は大学には、とりわけ日本の大学、学校にはまず無いし、それを学校に求める時点でそいつは考えるきが毛頭ないのである。本当の意味での大学は考えることをし始めた人間が通うべきところであり、たかが18のピヨピヨちゃんが来るところではない。考えることは意外に難しい。簡単なようでいて意外に大変だ。自分で考えるようになると、すべてうを疑うようになる。それが面倒なのだ。みんなが言っているからダメ。そんな理由ですべてを片づけてしまう。ねっ、思考停止でしょ?人殺しはなぜ悪い?大麻はなぜ悪い?受験っておかしくね?就カツっておかしくね?こんな疑問が至るところに溢れているから、常に頭を使う。常に糖分を補給しておかないとやっていられない。

 学問はすべて疑うところから始まる。既存の権威を、当たり前を疑うことから始まる。諭吉はやはりすごい。

 だから、諸君、考えることはおそわれない。考えることはそれ自体で一つの才能だから。選ばれし者にしか与えられない特権なのだ。すべてを疑え!だがアドバイスならできる。それは簡単なことだ。大学や、学校の授業にでるな、ということだ。学問のエッジはさぼってる学生の側にある。そういうとまた、でてくるでしょ、え~~!そんなのあるわけないじゃん!うん。そうだね。それが思考停止ってことなんだよ。少し、すべてを疑ってかかったらどうかな?既存の体制を肯定している限り、既存の価値観を無批判で肯定している限りは本物の学問はできないぜ。人殺し、大麻、席を譲ること、、、一度全てを疑い、その果てに掴む真理こそ真理たりえる。それが本当に考えるということであり、学問するということであり、哲学するということである。この三つはすべて三点セットである。一つできればこの三つ全てが手に入る。できなければすべてが手に入らない。

 いいかい、すべてを疑え!疑いの世界に真理多し。


 今日読んだ本;白洲次郎、占領を背負った男
 結果を出す人はノートに何を書いているのか、お金に頼らず賢く生きる 買わない習慣、体を温めると病気は必ず治る、世界一の美女になる話し方、10時までに仕事は片づける、蝶蝶 恋する女子たち、悩まず愛そう 小悪魔A
 
 セレクトが女の子っぽいのは交換所においてあったものだからか。女の子がきっとぽいしたんだろうな。その中にアダム徳永のスローセックス入門があったのには興奮した。へぇ、やっぱ女の子もこういうの読むんだぁ。へぇ、獣だねぇ。はは。人間は考えることは皆同じなんだなぁ、万葉の時代から、それ以前から。

 昨日かったチャーハンの素使ってチャーハン食った。うまかった。
 
本日の歳費;カラムーチョ キムチ味105、ごつもり焼きそば105、ぱいのみまっちゃ105、どでかみん105、さんまかばやきかんづめ105 計525円 也

 

2011年2月19日土曜日

名曲について

 おっぱいよ~~~~~!!今日も元気にロケットダッシュ!鉄腕ダッシュ!33分からのスタートどぅぇ~~~っス!

  
 名曲は世間にごまんとある。懐メロ特集を見ればすべてが名曲である。名曲には名曲になる理由がある。それは何か?名曲が名曲になるにはヘーゲルの時代精神に見染められなければならない。時代精神をあまりに巧みに表現したものが名曲になるのである。その意味において名曲とはその同時代に生きたリスナーの存在が欠かせないものとなり、またさらにはリスナーの思いでの付添人という役割も果たさなければならない。

 例をあげよう。

 最近サザンがマイブームなのでコレを例にしてみよう。真夏の果実、つなみ、涙の海で抱かれたい、言わずと知れた名曲である。夏の曲である。これはそれ自体で名曲である。だがこういったものが本当の名曲になるためにはリスナーの“思い出”がもっとも重大なファクターになるのである。この曲を聴きながら海辺を大切な仲間と、恋人と海辺の潮風をオープンカー、でなくとも、安いオンボロのワゴンでもいい、そんなので感じながら海岸線を走ったら、その時に名曲は真の名曲になり、そしてそれが遂に神曲になるのである。これは何も歌に限ったことではないのかもしれない。絵画や彫刻、映画、演劇といった芸術全般にも当てはまる。ただ音楽はそれ自体、空気や水、、、といった触媒があれば聞きたくなくてもどこでも聞けるという利点があるから、他の藝術よりも常に身近にある。その身近感が常にリスナーに寄り添える。海でもスキー場でも、山でも川でもラジカセさえあればどこでも寄り添ってくれる。極端な話、人間自らが歌うこともできる。鼻歌でもいける。そして昔はラジオを捻ればその名曲たちがラジオからあふれ出てきた。潮騒の感じられる浜辺に車を止めたカップルが熱い抱擁と接吻を交わしているところにサザンが彩りを添える。天国と極楽が地上に出現する瞬間だ。こんなカップルがごまんといた、あの時代に名曲が作られたのはこう言う理由である。冬には広瀬香美、もちろん、ユーミンは忘れちゃだめっしょ!などなど、演歌も然り。名曲は常にリスナーの“想い出”が欠かせない。名曲に涙は欠かせない。

 もちろん、今も名曲は生まれている。きっと生まれている。時代が経って自分の青春時代を懐かしむ時に、名曲はそっと寄り添ってくれる。想い出、ベルグソンが言った魂の定義。


 名曲に涙する者には魂があるんです。もののあはれがわかる人というんです。

 
 万葉の時代から多くの歌がうたわれた。名曲に恋の歌が多いのも、誰しもがの想い出によって支えられているからだろう。恋愛はどんな人にとっても、いつの時代でも、もっとも人の心を、想い出をとらえる最大の関心ごとだから。それは洋の東西も問わず同じこと。その表現形式が違うだけ。言葉が違うだけ。感じていることはまったく同じもの。場末の居酒屋で焼酎を飲みながら名曲を聴くか、バーでバーボンを飲みながら聴くかの違いがあるだけである。ユーミンかABBAかの違いがあるだけである。サザンかカーペンターズかの違いがあるだけである。

 そして今の時代を生きる者にとっては、どちらも名曲にすることができる。想い出によって神曲になった名曲を聴くことができる。名曲が神曲になる瞬間は同時代的に味わうことはできなくとも、その曲を名曲、神曲へと育むことができる。

 


 寅子さん、こんなかんじでいいかしらん?


 本日の歳費;チャーハン素105、さんまかばやき105、たまご6こ105、あずきなまくりーむどらやき、しゅがーとーすと、めーぷるしゅがー165 計480円 也

2011年2月17日木曜日

万葉集について

 昨日はお金を使いすぎた。今日はどこへも行かないぞ。マッハで書いて早く寝よう。レディ・ガガ!ゴー!

 NHKの歴史ヒストリエを見た。万葉集特集だった。万葉集は古墳時代から奈良時代までの天皇から庶民に至るまでの全ての身分の歌がおさめられている。大伴家持が聖武天皇の命令で採集、編纂したらしい。もっとも大伴家持が藤原氏との政権争いに巻き込まれ敗れたために、万葉集が世に出るのは平城天皇までまたなければならなかった。大仏と同じように国を仏教と歌の力で太平の国にしようとしたと言われている。

 まぁいい。こんなことを書いたって今の若い人は読み飛ばしてしまうのだろうから、話題をかえよう。

 文字を持たない民族はこの地上に五万といるが、歌を持たない民族は皆無である。科学においてもはじめに歌ありきが現在の定説である。サイエンスゼロでとりあげられていたから間違いないであろう。

 なぜ人は歌を読むのであろうか?それはたぶん体の中で生じた感動が、体の中でどうしようもなく抑えきれなくなったときにやむにやまれず、滲み出るかのようにしてもれいずるからだろう。誰かに伝えることは二の次なのかもしれない。ただ叫びたい!そんな感動が詩になり、画になり、歌になる。だから本当は愛してるなんてのはありのままの剥き出しの感動じゃないのかもしれない。ただ、面とむかって、おおぉおあぉぉあぁぁあぁぉぁぁぁぉぁおあおあ!といったほうが本当に思っていることがより伝わるのかもしれない。

 だがそれだけでは、動物に近い。人間は遊ぶ。ホモ・ルーデンスなのである。言葉を盛った。それが歌になった。万葉集に納められた。5・7・5は誰が決めたのだろうか?神の秩序と言わざるを得ない絶対的な頑強な美がそこにある。ただ脈々と歌い続けられたからなのか?それとも日本人にしかわからぬ何かの美の暗号なのか?それとも全人類に通じる絶対的な音節美がそこにあるのか?わからぬ。わからぬがある。あるから今に至ってその美をまざまざと見せつける。梁塵秘抄に、閑吟集に、利休に芭蕉に、一茶に、良寛に、晶子に、子規に、そして我につながっている。連歌や俳句の美にただただひれ伏すがごとし。大人物になりたければ、その系譜意識を決して忘れてはならぬ。結局今の売れっ子は日本を背負ってる。分野を問わず、日本を背負っている。イチロー、春樹。隆、安藤忠雄、隈健吾、一昔前だってそうだ。遡ったってそうだ。漱石、鴎外、白洲次郎、宮崎駿、岡本太郎、あっ、ここら辺のセレクトは最近見聞した本やものの影響です。影響ですがまず間違ってはいないかな。とりあえず、俺は日本代表です。そこんとこよろしく。

 今でも歌は絶えることがない。人間が人間である限り、人間は歌うことを止めることはないであろう。感情の高鳴りを歌に託すのは人間だけではない。鳥や獣も歌に感情を託す。歌は生命の象徴である。もしコンピュータが歌を歌った時にはそのコンピュータには魂が宿っていると言っていいのかもしれない。歌は生命の瞬きなのだ。

 歌は良い。歌は心を潤してくれる。リリンが生み出した文化の極みだよ。確かにそうだ。クラシックもいい、最近はミスチルにはまっている。サザンもいい。安室などなど、これらの歌い人が平安時代の六歌仙なのであろう。今も歌い人は当時と同じように多くの尊敬を集める。恋愛歌が多いのも今と何ら変わらない人間の営みがそこにあるからだ。結局人間は恋する為に生きてんのかもね。

 追記:思ったことはミスチルやサザンが英語で歌ってたらビートルズクラスになっていたと思うのは俺だけであろうか?そんなことを思った。


 本日の歳費;カレーパン105、牛乳、シスコーン・フロスト、ガーリックトマトソース、玉ねぎキャベツ、メ―ピルクッキーアイス505、パスタ500グラム128  計738円 也

 

2011年2月16日水曜日

東京タワー

 高きに登り、いよいよ人の意見に耳を貸さなくなる。そんな中国の諺がある。

 東京タワーに行ってきた。登れば、耳がちょっと痛くなったというよりは耳がちょっと違和感を感じたくらいだった。
 
 眼下に蟻のように小さい人々が所狭しと歩いている。車を運転している。走っている。余は天下を睥睨し実に愉快である。このような太平の心持で常日頃いたいものである。だが余もまたひとたびここを下ればぎすぎすとゆとりをなくした一平民に戻るに違いない。余は少しでもここにいた心持で今から舞い戻る俗世を送ることにしよう。もののあはれをもって生きよう。

 見晴らしはいい。天気も快晴であった。ずーっと眺めていることができる。高い料金を払ったから元をとってやろうなんてことは毛頭考えなかった。ただ眺めていたい。ぼ~っと何も考えずに。オノヨーコが語ったように空の碧さに優る藝術作品はない。また海の碧さに優る藝術もない。自然を超える藝術は存在しないのかも知れぬ。モナリザも一輪の花にも勝てぬのかもしれぬ。ただ暑い。熱い。地上よりも高い所に位置しているからかやけに暑い。これは客の回転をあげる策略なのかしらん。まぁ、いい。富士が見えた。それで十分である。富士には月見草がよく似合う。エレベーターを降りながら、富士が原爆のターゲット候補だったことを思い出していた。ここに原爆が使われればヒルズも、皇居も全てがぶっ飛ぶんだなと思った。そしてつい50年前にはヒロシマとナガサキで使えわれたんだな、と思った。今眼下を歩く何も知らぬ人間のような人間がいて、その人たちが一瞬で灰になったんだな。と思った。何ともいえぬあはれな気分になった。

 蝋人形館にも行った。その隣のお化け屋敷?というよりはお化けシアターにも行った。蝋人形館はぎりぎり元を獲った気がしたが、お化け屋敷は微妙だ。アバターを知った者はもう戻れない。あれはいったい何年前に導入したものなのだろうか?鉄拳1の時代に見たら画期的であったろうが、いまはもう平成23年だ。3Dが当たり前の時代だ。カクカクの映像は古く、怖いというよりも滅びゆく、温泉宿のゲームセンターを見たときに感じるあのあはれにも似たものを映像に見てしまったために、恐怖の前にあはれを感じてしまったためにまったく怖くなかったのが本当の所である。新東京タワーができる。この150メートルのこの高さの4倍である。滅びゆく者にもののあはれを感じる。

 祇園精舎の鐘の音が聞こえてきた。東京タワーは滅びない。スカイツリーができたからと言って壊される訳ではない。高度経済成長からこの日本を見つめてきたこの塔は今も日本を眺め続けている。人に歴史あり。東京タワーに歴史あり。詳しくはトラッドジャパンで。三丁目には今日も夕日が登る。



 本日の歳費;2000 特別展望台、1000蝋人形、お化け屋敷 、830上野 九州ラーメン にんにくいれすぎた、明日は誰とも話せない。425、2785 フィルム代   計7030円 也

2011年2月15日火曜日

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

 先生が死んで100年経ちます。先生がおっしゃったとおりに日本はあのあと滅びました。ヒロシマとナガサキに原子爆弾という全人類を簡単に全滅させてしまうような、そんな本当に夢物語の兵器が使われて一瞬で人間が塵灰に蒸発してしまいました。そうして陛下のお言葉で滅びが終わり、復興が始まりました。先生もご存じの通り、この国はやると決めたらやりきる国です。敗戦のあとに日本はすぐに立ち直りました。高度経済成長という奇跡とまで言われるぐらいの成長を遂げました。滅びて復活する、それがこの国のお家芸なんですよね。先生の時代には維新がありましたね。外からは叩かれるし、中はガタガタだしで大変でしたね。司馬遼太郎という人の本んで一応先生の生きておられた明治の時代は勉強したつもりです。もちろん先生や鴎外先生、一葉、二葉亭さんとか坪内さんとか、いちおうチェックしております。ああ、そうそう、先生の弟子の芥川さんも、チェックしておりますよ。先生、彼は先生の死後、自殺してしまうんですよ。先生の弟子としてはあるまじきことですよね。まったく。最近の若者ときたらプンプン!

 二度の奇跡を起こしたこの国は、先生の時代の時と同じようにただ上を目指し今も走っています。先生は今の状況を嘆いておられるでしょうか。この国はともすると奇跡を起こそうとする時には旧世代の大切なものを切り捨ててしまう時があるんですよね。近代化にまきこまれればそれは必然かもしれませんが。先生はご存じないでしょうが、世界は今、めっちゃすごいですよ。ネットというものがあって瞬時に世界がつながるんです。先生はきっと想像もつかないことでしょう。簡単にいうなら先生が学んだロンドンに一瞬で手紙を届けることができるんですよ。世界を股にかける企業もたくさんあります。弥太郎や栄一の残した会社は今もバリバリの現役です。効率を求めるのは何も今に始まったことではないですね。明治の時代に電車に、もう、先生はこの経済効率の果てにある世界をみていましたね。だからこそ先生は草枕や門をかいたんですよね。人間の穢さをあまりに知りすぎていたんですよね。わかります。僕も漱石門下の末端に位置しますから。僕の師匠の師匠が先生の弟子なんですよ。ほんとイッツ・ア・スモール・ワールドですね。先生に言ってもわかりませんよね。
 
 近代化と奇跡を起こす代償にこの国から情味は消えてしまったんでしょうか?明治は遠くなりにけり。昭和も遠くなりにけり。です。そして明治以来、リリシズムは遠くなりにけり。です。もののあはれが消えました。まだありますが、この国ではそれが本当に少なくなりました。先生の時代には学問が本能でした。しかし、今はもはや学問は本能ではなくなりました。人間が人間から動物になってしまいました。ある意味退化しました。先生の時代にはまだあったあの文学臭はもう昭和の初めに消えてしまったんですよね。先生は安易なノスタルジアだとおっしゃいますでしょうが、今ほど古典を読まない時代はほかにないのではないでしょうか。今先生や、鴎外先生たちの本は古典になりましたが、それだってまったくよまれてないんですよ。わたしはそれがくやしくてくやしくてたまらんのです。失われゆく古典、大切なもの、抒情性、もののあはれは永遠だと思うんです。今の文学は全てゴミです。自分と戯れているだけです。戦ってないんです。自分と。芥川獲ったって、直木獲ったって、あっ、先生、自殺した芥川の名を冠した賞があるんですよ、んでそれが文筆家を目指すものの登竜門になってるんですよ。まぁ、その賞を獲るような小説もなんかいまいちなんですよね。小手先で書いてる、先生もそうお感じになりませんか?ええ、私が古い人間なのはわかっております。重々承知之合点承知の助です。はい。でも、先生、僕は先生の時代から昭和の初めごろまでの重い、自分と戦った残滓の小説がやっぱり小説だと思うんです。今の時代はなんか軽いんです。本気の匂いが伝わってこんのです。無頼派はいなくなったんですよね。あ、これも先生はごぞんじないですよね。坂口ってやつがいたんですよね。太宰ってやつも。こいつもなかなかのやつでしたね。まぁ、ここらが小説のピークですかね。ルネサンスみたいなもんですね。先生の時代がレオナルド、ミケランジェロ、その後がバロックとなってくわけです。あとは下るだけ、質の悪い酒が出回る。悪貨が良貨を駆逐するってわけです。ライトノベルも軽いっすね。薄めたカルピスのような村上春樹っていう奴の小説が今の時代を象徴しているんじゃないでしょうか?あ、カルピスというのは手淫の時に、、、いてっ!先生下ネタはお好きではないのですか?え、今はやめろと、不特定多数の人が見てるからと、へぇ、わかりやした。まぁ、カルピスというのは甘い牛乳を薄めたような飲み物です。先生の時代にもジュースはありゃんしたでしょう。そんなふんわりしたものが求められとるんです。先生の時代のものはたとえるならマッカラン、〆張、ロマネコンティ、等々ですね。重くてハリがある、そんな感じです。そして僕もそんなものを書いております。代次郎のような世紀の大論文を書いちょります。
 
 あぅ。と。先生、長々と話してしまいました。そうですよね。そうです。うんうん。わかってます。いつの時代も人間は変わらないですよね。そうです。もののあほれがなくなったと騒ぐのもばかばかしいですよね。なにももののあはれを感じているのは詩人や歌人だけではないですよね。八百屋も漁師のかんじてますよね。大学出も感じるし、農民もかんじてますよね。百姓も。言葉狩りには戦います。まぁ、とりあえず、先生、見ていてください。これから世間に本物の日本酒をぶっかけてやりますんで。先生の大親友であられた子規さんのように大きく世に出たいと思います。こんな感じでどうでしょうか?仰せの如く近来小説は一向に振い申さず御座候。ってな感じで行きたいと思います。もののあはれの復権をなんとか試みてみます。先生の意志はしっかりと私に引き継がれております。漱石門下の名に恥じぬように一層精進してまいります。先生と同じように私もまた文士です。日本の為にがんばります。日本を背負っています。日本のために、世界の為に、そしてなにより、自分の為にものを書いていきます。先生を超えることこそが一番の恩返しと考えております。すこしでも世間にゆとりある生き方を提示していきます。自由意志でお年寄りに席を譲る人を増やします。駆け込み乗車を減らします。音漏れシャカシャカウォークマン野郎を減らします。もののあはれをこの今のくそったれな日本の世間に根付かせたいと思います。長くなりました。先生、これからもお体に気を付けてください。これからの僕の活躍にどうぞ期待していてください。

 合掌 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。



 今日行ったところ;雑司ヶ谷霊園、高田馬場のハンバーグ屋さん


 今日の歳費;

2011年2月14日月曜日

調子に乗っている知り合いのエッセイストに対抗!!!

 いじめられている君へ いじめている君へ

 
いじめるって本当に楽しいよね。もう超最高だよ。マジで面白い。腹が本気でよじれるくらいに超楽しい。優越感、全能感に浸れるもん。モンハンよりも、ポケモンよりも、こんなに楽しい娯楽はほかにはないね。
いじめられるって本当に苦しいよね。変なプライドもあって、そのことを誰にも言えない。学校行ったって席に一輪の花が添えられてるだけだもんね。まだ反応のあるうちはいいよね。うん。なんの反応もないのが一番ヤバい。無視が一番つらい。泣ける。生きていても仕方ない。死んだ方が絶対マシ!そう思うよマジで。
僕はどっちも経験しました。いじめている時には天国で、いじめられている時は地獄でした。今になって思うのはいじめていたことに対する卑怯な自分への罪悪感と、いじめられたことに耐えられた自分への誇りです。今僕が言っていることはみなさんには絶対にわかりません。だから僕が言えるのはこれだけです。とりあえず生きてこの僕の真偽を確かめてみてください。以上です。とりあえず生きてるふりをしてみてください。存在してください。それだけです。


 48文字オーバー。まぁ、400字に削れるっちゃ、けずれるけどね。ま、ここはこのままが御愛嬌ってことで。

早起きは三文の得

 よっしゃ!今日もロケットっスタート!乱れた文章は出版社から出す時には校正するんで、今は剥き出しの果実状態にしておきます。伝わる生なライブ感をこそ大事にしたいんで。イイタイことが伝わればそれでよし。今日も15分で仕上げるぞい。

 最近訳あって苦手な早起きをせざるを得ない状況にある。苦しくて辛いが、結果いいことがたくさんあったりもする。まず一日が長い。極めて長い。有意義に一日を過ごしたい方は早起きされた方がい。アメリカのヤングエグゼクティブ、つまり若き成功者たちは5時には起きているそうだ。オバマは4時に起きる。やはりできる男はスタートダッシュが違う。

 早起きすると一日が長いから時間にゆとりができる。ゆとりができれば散歩になる。東京は広いが忙しい人間にとっては狭い。いつも同じところを行ったり来たりするだけだ。それではやはり世界は狭かろう。だから最近世界が広がった。やはり人間は暇がないといけないと見える。明治神宮にも行けた。靖国神社にも行けた。市ヶ谷から上野まで歩いたり、明治神宮から高田馬場まで歩いたりもした。暇がなければまずできない。こんなことをできるのは藝術家か、詩人か、大学生の今だけであろう。もちろん私は藝術家なので一生涯こう言うことができる訳である。うらやましいであろう?諸君。だが売れるかどうかはわからぬ。リスクをとっている。それは当り前である。努力なくして栄光なし。正負の法則、ハイリスク・ハイリターンである。しかし、今の大学生にゆとりがないのは、早起きをしない為であろう。いいともまで寝ていれば一日は極めて短い。メールチェックとツイッターで終わってしまう時もある。その日一日罪悪感に浸って、目覚ましをセットするが、また二度寝していいともで起きる。この繰り返しで就活を迎えて卒業する訳である。そんなもんである。

 昨日は靖国神社へ行ってきた。天気は快晴である。張り詰めた冷気の空気がうまい。日本の平和を感謝した。全てが調和した午前の情景である。骨董市がやっていた。なんだか目を引くものがある。少し古びた翁の面、千と千尋の神隠しの大河の神様、よきかな~、と言ってお帰りになったあの竜神様ににているお面があった。値段は1200円だと思ったら、なんと12000円。まじじか~~!?やべ、15分たっちゃった。延長で。おじさんが半値でいいという。しかし手持ちが2900円しかない。買えない。残念。今日ここに呼ばれたのも、この為なのか?とも思う。すぴりちゃるなものが大好きな僕は全てのものに、ことに意味付けしてしまう。だからこれは欲しい、欲しいが手持ちがない、、、いや非常用の1000が円があった。だがあと3100円足りない。いい古い木だという。これ以上は負けられないという。業者間の半値までが限界という。はぁ、それでも足りない。じっと見つめて、

 おずおずとまた市に戻った。骨董市は見るだけで楽しい。大村益次郎の前を通る。帰路。

 やはり、あれが気になる。やっぱり買おう。うん。そうしよう。たまたまいた友人たちからお金を千円ずつ借り5900円になった。しかし、あれは5000円で生ける気がする。もう一回交渉して5000円でがんばってみよう。なんなら藝大の名刺をだして出世払いにしてもらおう。

 もう一度おっちゃんの所に戻る。物欲しそうにまた黙ってじっと見ている。すると、さっきのお兄ちゃん?と言われる。ええ、、、、、、おじさん、、これ5000円じゃだめっすか?、、、、よっしゃ!それでええ。ほんとうですか、ありがとう!いま友達から借りてきます。あとこれ持っててください。藝大の名刺を渡した。あとは出世払いで。おお!藝大生か、へぇ、この面ね、古いかどうかはあんま調べないんだよね。なんかいいと思ったから高く付けてみたんだよ。正確な鑑定がされて目利きでないとばれるのはやはり恥ずかしいものであろう。保険をうったのかしらん。いずれにせよ、おじちゃん、ありがとう!藝大の名を語るは寅の威を借るキツネである。キツネであるが藝大は俺がいるからネームバリューがあるのである。藝大が凄いのは藝大自体が凄いのではなく、そこを卒業したもの達が凄いからバリューも上がるのである。ゆえに俺が、俺自体が藝大のバリューをあげているのである。


 そうして、わたしはこの面を今部屋に飾っている。骨董は危ないものも掴まされるかもしれない。価値のないものを高く売られるかもしれない。価値あるものを安くゲットできるかも知れない。それを恐れているうちは永遠に骨董などはわからないのである。だまされるのもまた骨董の醍醐味である。ネガティブオーラを持つものを掴まされるかも知れぬ、いいオーラを持ったものを掴むかも知れぬ。骨董は心の澄み切った状態のときに行かねばならぬ。この今日の碧い空のような心持で見て、触れて、体吟して選ばねばならないのである。

  
 本日天気晴朗なれども波高し!



 他に行った場所;皇居、北の丸公園美術館、人形展。現代の彫刻のエッジは人形である。やはり学生の作品とは圧力がなにか違う。はっきりわかったのは、魂をもった彫刻はやっぱりすごい。こっちが後ずさりしてしまうような力がある。絵画も、音楽もそうか。

 計;朝マック200、コクの時間、カキフライ、若鳥のから揚げ、野菜餃子、アップルパイ、ミルフィーユ、  1299円 也

 時間30分経過、15分オーバー也。

2011年2月13日日曜日

サヨナラダケガジンセイダ

 約一年間お世話になったバイトを辞めた。学業に本腰を入れるためだ。バイトを言い訳にして創作をさぼっていた。本当ならばバイトを続けながら創作活動をせねばならないのかもしれないが、漱石の草枕を読んだら藝術家はのんびりとせねばならないというから一度真っ白になって考えてみたかったし、毎週の土日がバイトでは学校が平日毎日あって、土日もバイトだとのんびり藝術館見学もできずじまいであった。だから今年は授業もあまり出ないようにしたい。大学に本物の学問がないと言いながら、皆勤賞に近かったのは、自分が本気を出してダメだったときのいい訳の理由が俺の本心のさらに裏の方にあった気がする。もう逃げない。この一年を勝負の年にしたい。早くビッグになって有限実行をしたい。今年は昇る年。昇龍の年。

 お世話になったバイト先の皆様、本当に一年間ありがとうございました。

 学んだこと、それはこの世は驚くほど多くの人によって支え支えられしているのだなと肌で知れたことです。まさにコぺルくん曰くの人間分子網目の法則というわけです。これを臓腑で納得した訳であります。私は東京駅のホームでお弁当を売っておりました。お弁当を食べるまでには、まずは俺のような販売員がいて、そこにお弁当を持ってきてくれる補給員さんがいて、そのお弁当を均等に配るホーム周りさんがいて、安全の立ち入りを見張る警備員さんがいて、お弁当を東京駅まで運んでくるトラックの運ちゃんがいて、工場でお弁当を作る人がいて、具に関しては野菜は農家から、肉は肉屋さんから、魚は漁師から、箱のデザインは社員さん、その時の売れ具合から発注をしたり、みんながみんな支え合い支えられ愛合い生きている。このことを肌で学べて良かった。これが一生涯の宝物になることだろう。何よりも得難い財産になった。東京駅の駅弁は少々高いが、マジでうまい!旅のちょっとしたぜいたくな時間のお供に最適である。これはマジである。衛生管理は完璧すぎである。少しでもパッケージが破けていれば交換である。信頼のできる会社である。そんな弁当だから安心して食べられる。空腹と安心が一番の極上のスパイスである。

 もう一つ学べたことは、それはお金を投げて出すような人間には決してならないと決めたことだ。お金を投げて渡すようなことは人間として恥ずかしいことだと思う。お客様は上様であるのは当然だが、それだけで優れた人間ではない。お互いに人間なのだ。そこは絶対に譲れないところだ。だから、人間が人間同士互いに行為を尽くしてそれを喜びとし合えるような関係であることこそが仕事の喜びであり、それこそがあるべき人間の労働の姿なのである。であるからお互いに“ありがとう”といいあう姿がこの世の理想であろう。買ってくれてありがとう。売ってくれてありがとう。販売員だけでなく、買ったお客もありがとうという。言えるお客さんはさすがだなと思う。お金を投げてよこす客よりは人間的に格上だと思う。どんなに高いお弁当をたくさん買ってくれるよりも、ありがとうと言ってくれるお客さんのほうが一番のお客である。そして人間的にも一番である。私は売店に立っても、お弁当を買う側になっても、ありがとうといえるにんげんになりたい。

 この国からありがとうのことばが消えていったい何年が経つのだろう。昔はありがとうの応酬があちこちでちらほらとみられたという。三丁目の夕日は安易なノスタルジアで犯罪の件数も今よりは段違いで多かったのも事実ではあるが、それでも昔はありがとうがあった。いまもある。だが少なくなった。犯罪件数が戦後最少となったのはいい。戦後民主主義教育が50年経って浸透した結果だ。だがそれは、俺俺様を増やすことにもつながった。天上天下唯我独尊が無数に増えた。モンスターペアレント、一億総評論家時代、権威の失墜、スーパーフラットは止まらない。加速するだけだ。いよいよやってくるダス・マン社会の到来。それは語り継がれるべき古典の消失を意味する。


 我二十有五にして天命を知る。我の為すべきことは失われゆく古典を語り継ぐ事なり。これができれば死んでも構わぬ。魂をもって語り継ぐことに毎日尽力したい。


 今までお世話になったみなさんの応援を受け、一ノ瀬健太はここにビッグになることを誓います。

 やるぜぇぇぇっぇ!!!!昇って見せるぜ!バベルの塔!

 
 憂ゆく日本を変えるぜよ。
 

 敷島の 大和心を ひと問はば 朝日ににほう 山桜花        ―― 宣長


 本日の歳費:806円 (祝い酒216円) 也 実質590円 也
 

2011年2月12日土曜日

雪ん娘ちゃん

 脳科学者茂木健一郎氏によると日記はその日の夜に書くよりは、その日の翌日の朝に書いた方がいいらしい。かくいう氏もそうしているらしい。脳のゴールデンタイムはロケットダッシュが肝心だ。わたしも朝起きたら宮城リョータ並みの速攻で日記を書くことにしよう。


 昨日は雪が降った。東の都に花が舞ったかと見紛うほどの雪であった。積もらないかとも思っていたがけっこう積もった。

 ネットは時間泥棒、この日記もそうだ。なんとしても15分で仕上げる。タイムプレッシャーを自分にかける。あと10分どれだけかけるのか勝負だ。
 
 雪を見ると血が騒ぐ。なぜかわからないがそうなのだ。自分が雪国の人間だからなのかもしれん。雪に美しさを感じるのはそれが全てを白で覆ってくれるからかしら。全てを理想で満たしてくれるから?白は純真、純潔、何物にも染まらぬ色。いや、染まる前の色なのかもしれない。墨子非糸、ようしゅきゅうきの前の色という訳だ。人間失格の太宰の最後のおんなの色。それが道路わきに残った雪のようにもの穢くくすんでゆく。誰にも見向きもされなくなっていく。そこに私はもののあはれを感じる。

 梅と雪がここから見える。この最強に美しいコラボは日本人だけにしか解せないのだろうか。芭蕉を解する人間だけがこの美しさを占有できるのであろうか。いや、日本人というだけでは理解できないのだろうか?知識や教養なくしてはこれ解することができないのであろうか?

 答え:もののあはれを解する心は誰にでもある。漁師にも八百屋にも、IT長者にも、ビル・ゲイツにもホームレスにも。魂を持った存在であるのなら誰にでもある。雪を感ずるに日本人である必要なく、梅を感ずるに教養を持つ必要なし。

 ただ時に満員電車とかで我を見失っている時には人はもののあはれを忘れがちになるんです。急いでる時なんかは、普段もののあはれを感じる人でも感じれなくなるものなんです。もののあはれを感じるにはこころのゆとりが必要なんです。そんなゆとりを持つ人ならみんな雪と梅の最強コラボを感じいるんです。


 もののあはれは国境も時間も超える。

 雪ん娘ちゃん、もっと降ってぇん!


 本日の出費:455円 也

2011年2月11日金曜日

早急のアクエリオン

 アニソンだからと見下すなかれ。クラシックだからとて敬うなかれ。

 
 しかと聴け。耳を澄ませ。わだつみの声をきけ。

 
 世界を変える作業中に音楽を聴きたくなった。グルドのゴールドベルクは5万回聞いた。次は違う世界が聞きたい。クラシックはしばしお休み。さよならマタイ受難曲くん、しばしの別れ。

 ふと浮かんだアニソン。

 高尚な私の作品が例え決まっている文章をパソコンに打ち込むだけとはいえ、下賤で俗的な音楽に汚染されるんじゃないか、という心持もあるにはあったが、とりあえず好き嫌いはいけない。聞いてみよう。

  アニソンといっても、エヴァ、らきすた、ハルヒは聞いていた。ハルヒに至ってはライブも見ていた。だからホントのところをいうとアニソンに関しては実は既にリスナーである。ただ、昔のアニソンは聞いていない。なんか古くてダサいものと思っていたから。
 
 けど聞いてみた。好き嫌いはいけないよ。とりあえず飛び込んでみた。

 


 一通り流して聞いているうちに、ある曲が耳に槍を突き刺してきた。


 創世のアクエリオンであった。パチンコの機種だからという理由である種、蔑視していた自分がいたのは紛れもない事実だ。だがその自分がいかに間違ったものであったか改めて気付かされた。良いものは良いのである。それは譲れぬ。勝手に思い込みだけで判断することがいかに多いことか、曲だけではない。絵も彫刻も、映画も人も事件も、ものそのものを見ないで、耳で判断していないか?自分が感じたことに嘘をついて、人と同じであることで安心しようとしてやしないかい?という内なる声がしてきた。いや、見る前からこれはこういう絵なんだ、とかこれはこういう曲なんだ、これは金持ちの為に作られたんだ。これは貧乏人の為に作られたものなんだとかレッテルやバイアスを自らに課してものを“観察”していた。こういうものだ!という思い込み、バカの壁でものを見て考えていた。結局人に踊らされていた。自分で踊らす側になると決めていたのに、また初心を忘れていた。とりあえず自戒の念としてここにそのことを記しておく。

 自分へ

 迷ったら




古典に還れ!!!


 とりあえず、神が好むような岩清水のような透き通ったこころのまなこでものを吟味したい。全てのものを自分の感じたまま表現したい。自分自身を偽ることを一番恐れたい。


 創世のアクエリオン、とってもいい!!!!!っす!


 本日の歳出;631円 也

2011年2月10日木曜日

ネロとアロア

 大昔にやったかやらなかったか、でも、うっすら一度やったような気がするスケートに行ってきた。
六本木、東京ミッドタウン、屋外スケート場。時折さす陽射しが春の訪れをことほぐ中ですずめちゃんたちと一緒に氷の上を滑って楽しんだ。運動神経のいい僕はすぐにコツをつかみスイッスイッと滑られるようになりました。係員のきれいな女性にコツを聞きました。だいぶお上手です。もし改善点をあげるとすればもう少し片足に体重を乗せる時間を増やした方がいいですね。そうほめてくれてうれしかった。すぐに特訓して、すぐにけっこううまく滑れるようになった。カーブはスピードスケート出回るため、カーブの後が一番スピードに乗る。しかしリンクがけっこう狭いのでトップスピードになってもすぐにまたカーブになってしまう。

 1時間ぐらいすると足が痛くなってくる。中でも一番我慢できないのは、スケート靴と足との摩擦から生じる靴ずれだ。それが一番痛い。そして膝にもくる。スケート靴が重いため膝にもくるのだ。もっそりもっそりと膝が上がらなくなってくる。

 あぁ、慣れたら慣れたでイタズラがしたくなってくるのが人間の本性だ。一緒に行ったまだうまく滑れない娘にちょっかいを出す。軽く押したり、猛スピードで横切ったり、お尻を触ったりする。へへん!ちょろいね!俺は天才ファン・ディアス(キャプテン翼より)!というわけだ。女の子も女の子でやられるだけでは悔しいらしく、逆に滑れないなりにも抵抗を見せてくる。私が押そうとすると、私の腕を掴んできたりする。結果、二人とも“どすん!”と尻もちをつく。簡易なリンクであるから、二人が同時に尻もちをつけば会場全体がずしんと揺れる。女の子のリアルお尻からの尻もちはめったに見られるものではない。りある尾てい骨うちを目撃できたのは実によかった。リアル杜氏春である。それに気をとられたために私も不覚にも転んでしまったのはかっこ悪かったかしらん。

 スピードに乗ってカーブに突っ込みダイビングヘッドスライディングや足からのスライディング、実に多くのスライディングうをした。きれいな係員のお姉さんを追走してのスライディングは乙だった。一番転んだものが一番うまくなるという真理を実践した。体の出っ張り部分が痛い。腰の外側の横、膝の外側の横の出っ張り、骨の出てるところがいたい。押すといた気持ちいい。歩くとじんじんしてそれもまた気持ちい。靴ずれの痛みは絶対悪である。だがこの痛みはたまにはいい。ある種のたちの悪い筋肉痛みたいな感じでいい。

 守破離はどこであっても真理である。藝論の根幹である。うまくなりたかったら、うまい人をまねればいい。まねた先にオリジナリティーがある。

 まとめ;スケートはバランスである。浅田真央はめっちゃすごい!!!




 その後は文化庁メディア芸術祭にいってゲイジツを堪能。大賞のくるくるまわるカオスな感じの鉄の棒はあまり面白くなかったなぁ。

 細かな白いが無数につながった感じの天地創造的な映像作品がよかったなぁ。マイベストはあれだね。ALSのコミュニケーションツールもよかった。

 マンガ、引き延ばすと迫力あるわ!!!ふつうに現代絵画よりもマンガの方が人を惹きつける力をもっている。

 最近のメディア藝術はインタラクティブせいにあるのかなぁ。上からの藝術といわれているけどなぁ。

 
 帰り、馬場で焼き肉。五苑。うまし。3000円食べほ。ホットペッパー使えず残念。

 いっぱい食べてもう、うごけんわぁ。ほんと最高の時代に、最高の国にうまれたわぁ。


 計;1500 200 2000 =3700円 也

2011年2月8日火曜日

ぼくは小学5年ちぇい

 東京藝大で開催中の“ぼくの色、わたしの形”展覧会に行ってきた。

 子どもは良いね。自由だよ。ほんと。それが高学年になってくると作為が見えだしてダメになってくる。こう書いた方がよく見られるんじゃないかというような他人の目を気にし出した瞬間に作品はダメになるね。作品のクオリティーは他者の視線を意識し始める思春期の到来とともに下がって行く。美的基準が自分から他人にシフトして行く。結果、みな似たようなつまらない作品になっていく。素晴らしい藝術作品は自己の自問自答でしか生まれない。そこには他人が介在する余地はない。自己に忠実でありさえすればそれでいいのだ。だがそれが難しくなってくるのがあの年頃でもある。

 また作品がダメになるもう一つの理由としては、うまくなるためにはそれ相応の努力を要するということだ。くだらないおしゃべりをしながらではいい作品はつくれない。話せば話した分だけ作品に込められるべき熱量は減って行く。昨日誰をおかずにしたとか、関ジャニで誰が好きとか言う話は作品の価値を減ずるだけだ。だけだがその話は、そこでする話は実に面白い。そこでしかできぬ話でもある。手を動かせば口も軽くなる。それにある種のあきらめが既にある。どうせ本気でやったって、作品の質はたかが知れてる。それに本気でやってたらイタイ奴に思われるだけだろ。美術にそこまで賭ける気は毛頭ないね。といった感じだろう。まぁ、あそこにある作品自体が先生たちの恣意的審査を通ってるわけだから何とも言えないけどね。まぁ、そんなだべってる奴らよりはいい作品なんだろうけどね。

 また展示について。展示品に触れないのはいかがなものか。本は触れて当然だろう。それはよろしい。問題は布や木、金属系統の作品だ。触ったっていいじゃないか。砂時計の作品が触れないってどういうこと?だれが壊すの?砂時計は砂が流れてこその砂時計でしょ!布は触れての布でしょ!あんなところでこどもたちが展示をみたら美術品とは何か?を誤解してしまうでしょうが!ガチガチに管理された監視の中で作品なんて見れませんよ。えぇ、そうじゃないか、諸君。子どもの作品だから触ってもいい。まだ無名の人の作品だから触ってもいい。そう言ってるんじゃありません。一流のアーティストも指輪とか茶碗を、見る限定ではなく、実用を兼ねるものであるならば、触らせなきゃだめでしょ。戦国の茶人は見て触れることで美を鑑賞したんです。何ですか?いまの美術館は!近代的な美の陳列は!あんなの見るだけじゃないですか。触れないじゃないですか。あんなのはたちの悪いSМですよ。餌を前にした犬にお預けしてよだれを垂らさせて遊んでるのとおんなじですよ。たちの悪い。そんな鑑賞方法、鑑賞環境の中で育った子どもに美術鑑賞なんてできる訳ないじゃないですか!何が藝術ですか!自分で字自分の首をしめているのがわかんないですかねぇ。そういうのを本当のバカというんです。バカに付ける薬がないから面倒なことになるんです。


 だからぼくはこっそり子どもたちがたくさん集まっていたから、聞いてみましたよ。砂時計の前で。みんなさかさまにしたいって言ってましたよ。だからね、僕はさかさまにして挙げたんです。え!まじで?いいの?そういっているにもかかわらず、じゃあ、やめよっ、というと、やってぇ!という。だから、やってあげたんです。そうしたら子どもたちは、おおっ!と目を見開いて“あぁ、きれい、、、はぁ、、、、、”っていったんですよ。そこにいた全ての子どもたちが!これですよ!これ!これこそあるべき美術鑑賞なんです。作品の保護よりも子どもの目の輝きにこそ重きが置かれるべきなんです。プライオリティーを間違っているんです。作品が壊れたら私が直します。だから温室でトマトを育てるのはやめなさい。カラッカラの大地でトマトを、子どもを育てるんです。自分の性的な欲求不満を子どもたちにぶつけてはダメですよ。自分の欲求不満くらい自分で解決しなさい。


 そんなことをおもった展覧会でした。多くの幼稚園、小学生、中学生が来館していた。中学生は中ではしゃいでいたため、60人くらいが外で先生からお説教をくらっていた。その先生の後ろで、私がコマネチをしたら大爆笑だった。それでまた怒られていた。あの時期は何をやっても面白い。感性がマックス鋭い時期である。花ビラが落ちるだけでもおかしい、そんな素晴らしい時期である。多感な、センスを磨く時期である。私の鑑賞方こそ彼らにふさわしいのである。もちろん、彼らだけに限定されるものではない。万人が万人に遍く当てはまる美術鑑賞方法なのである。


 本日の出費;475円 也       合格

2011年2月7日月曜日

日記は毎日書こう

 創作活動を言い訳にして日記を付けることを怠っていた。ゴッホの書簡を読んで改めて自分が情けなくなった。言い訳は理由にならない。

 最近怠っていた理由は、ひとたびブログを書けば3000字を越えなければならないという何の根拠もない強迫観念じみたものを感じていたためである。だからあえて、面倒なことになるからと書かずにいたわけである。だがそんな甘えも今日で終わりである。毎日書く。ネット環境があるなら毎日書く。怠らず書くことをここに誓う。これを読みし人が証人である。毎日書くと決めれば、毎日たった疲れた。ふぅ。といった感じで10文字以内になるかも知れぬが、固定はしない。自由に。自由にをモットーにこのブログを細々と続けていく。余が生涯のライフワークの一つである。

 ゴッホをみならって自己に忠実に自分が思ったことを詳細に綴って行くのである。余はゴッホである。君はテオである。

 
 藝大の卒展、実に面白かった。下手な都心の大規模展覧会よりも余っぽど面白かった。全体的に日本画は微妙だった。こんなことを書けば敵をつくるかも知れぬが、それでもやっぱり思ったことは書いておこう。どうせだあれも見ていやしないのだから。日本画で記憶に残っているのは蛙と南国の少女の絵だけであとは何も残っていない。彫刻はすべて思い出せる。彫刻は良かった。どこに何があったかまで隅から隅まで配置が頭に入っている。油画も面白かったが、全体的にパンチがたりなかった。まぁ、それでもだいたい記憶に残っている。デザ化、工芸、大学美術館にあるものはすべて頭に入っている。頭にうんこビルを乗せていた人形、立体がシュッとひきしまっていて良かった。全てに関して批評したいのは山々だが時間にも限りがある。全てに関して批評できるが、ここでは割愛しよう。よって今回はひとりだけ取り上げる。だれにしようかしらん。

 うん。そうしよう。

 W田さんからのリクエストがあったので彼の批評をしましょう。

 W田さんの作品について、読んでおられることを想定して記しておきます。 

 今回の彼の作品は彫刻ではあったが、彫刻は彫刻でも音楽的彫刻であった。シンセサイザーやノイズの混じったアップビートでポップなミュージックが泉のように一斉に湧き立ってくる、そんな彫刻であった。他の作品が重量感に溢れる質的彫刻であったなら、今回の彼の作品はかたちの美しさ、幾何的造形に重きを置いた構造的秩序に基づく作品であった。ノリのよいアップビートな音楽は人の心を浮遊させ、俗界と峻別させるある種の酩酊感すら漂わせる。幾何的図形の狭間で揺れるその作品にはほかの作品とは異なる“軽さ”がその特徴にあった。見るものに幾重にも重なる幾何の曼陀羅が怒濤に押し寄せ、窒息すらしてしまう情報量に、死の直前に感じるあのエクスタシーが脳裏を霞める。昇天寸前まで導かんとする愛は性欲か、はたまた魂のハートか。今回の彼の彫刻は天を目指した。地上を離れんとする彫刻は軽くなければ重力には勝てぬ。天を目指せぬ。そのために彼の彫刻は軽さを希求した。その為に彼の彫刻は“軽”かったのである。ここまでは批評である。

 ここからは感想である。次回は彼の“重い”作品が見てみたい。高村光雲みたいな“重い”やつを。今回はポップなアップテンポのビートが脳髄を駆け巡る彫刻であった。次回は重低音のウーハーを効かせたビートを刻む“ズシンっっ”とくる作品が見てみたい。
 
 

2011年2月1日火曜日

Tanzen! Tanzen! Tanzen!

   
 二次試験について、前回までの24、ER、プリズンブレイクって感じ?前回の続き。

 

  問題 それを芸術作品とする人もいれば、しない人もいるというように意見が分かれるもの、
または分かれたものを1つ(または1種類)選び、それぞれの側が出すであろう論拠を想定して提示しなさい。


芸術作品とはいったい何であろうか?まずは芸術作品という概念を定義し、その後にその題意に基づいて考察をしていく。
一般的にいって、そもそも芸術の本分とは美の追求であるとともに、時代の真実をあらわす鑑(ツァイガイスト)であり、国境や、時代、社会の変化を超えて遍く多くの人々に感動をもたらすものである。そして藝術作品は何も造形芸術だけに限られたものではない。音楽や文学などの非造形芸術、さらには近年のインスタレーションなども当然含まれる。ここでは内海信彦氏のインスタレーション作品を取り上げ、賛否両方の面から対話(ダイアローグ)を重ねていく。

“素晴らしい芸術作品のない国は不幸だ!”、“否!素晴らしい芸術作品を必要とする国こそが不幸なのだ!”二人の男たちが激しい舌戦を繰り広げる。“お前の造る芸術作品など素晴らしくもなんともない。下品で、お下劣極まりないだけだ。ただ重厚で、気味の悪い、悲壮感漂う音楽をかけて、その前に全裸の人間を立たせて、お前はナチの軍服を着て、そいつらに紅い粉をただ叩きつけて、ひとり悦に入ってるだけじゃないか。あんなのは子どもにだってできる下等なものだ。技術なんて何もいらないじゃないか。それにわざわざアウシュビッツくんだりまで行く必要があるのかねぇ。”、“お前は芸術というものを何もわかっちゃぁいない!お前の考える芸術はただうまくて、きれいで、心地いいものとだけでも考えているのだろう。芸術はそんなつまらないものものではない!そんなに懐の浅いものではないのだ!わざわざアウシュビッツに行くことにこそ意味があるのだ。敢えて、まさにその地で、そのインスタレーションをやることにこそ重大な意味があるのだ。”、“その意味とは何だ?”“祈りだ。”、“ぬはは、馬鹿げている。馬鹿げているぞ。そんな傷口に塩を塗るようなことをしておいて、何が祈りだ?救いだ?馬鹿も休み休み言え。”、“では、訊こう。お前に俺がやったことができるか?お前はさっき子供にでもできると言ったが、じゃあ、やってみたらどうだ?”、“そんな暇は“そんな暇はない、とお前は言うだろう。勇気のなさを言い訳してはならないのだ。それにお前は訊いたのか?現地に行って、彼らの声を。少なくとも俺は彼らと直に接し、俺の為した行いが彼らの救いになっていると肌で実感した。そういうお前は、実際に現場を見てきたのか?”、“ふん、何もわざわざ寝た子を起こすな、と言っているだけの話だ。どうして過ぎたことをまた、掘り返す?”、“思い出さねばならないのだ。思い出すことで、人間は人間になるのだ。過去に目を閉じるものは、また同じ過ちを繰り返すのだ。お前はもう、よもや、またあの惨劇が起こることはないだろうと思っている。だが、違うのだ。あれは過去の出来事であるとともに、未来の、そして今の我々の姿なのだ。”、“な、なんだと!?”、“今の社会を見渡す時、限りなく花開く人間の可能性がいったいどこにあると言える?俺たちは縛られているのだ!自由の抑圧にさらされているのだ!満員電車に揺られ、牛丼を食べ、家と会社を往復する毎日のどこに花開く人間の可能性があるというのだ?それが無意識的であるだけに、なおたちが悪い。その為に声をあげられぬちいさな者たちがいる。親や、学校、会社、国家、その陰にひっそりと息をする声なき声に耳を傾けるのだ!人間は鳥や、獣ではないのだ!人間には追及すべき価値のある生き方がある!それは道徳であり、科学であり、宗教であり、そして芸術なのだ!そして、それを伝える手段として、俺はあの芸術作品をこの世に生み出したのだ!”

内海氏の芸術作品は論争に絶えない。だが限りなく“ちいさき者たち”に寄り添おうとする彼の態度は素晴らしく思う。ブレヒトの異化効果や、ヴァイツゼッカ、ヴィンデンバルト、フランクル、神谷美恵子などをコンテキスト付けながら、声なきに聞き、形なきに見る彼の芸術作品は芸術とはなにか、そして、人間とは何かについて、鑑賞者の魂をひどく揺さぶる。壮絶極まりないアウシュビッツの極限状況下で人間を救ったもの、それはショパンであり、ミケランジェロであり、ルーベンスであり、そしてシェークスピアであったのだ。その意味において彼の芸術作品はその系譜に連なる極めて優れた芸術作品だと言える。

冒頭、彼らの舌戦はまだまだ続くであろう。大事なのは互いに歩み寄ることだ。理解されるよりは、理解されることを、愛されるよりは、愛することを求めたアッシジのあの聖人のように。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。彼の作品に涙は追いつけない。



 問題を見た瞬間に受かった!と思った。後で入学してからわかったことだが、ここ5,6年ディスクリプションなるものが出題され続けていた。ディスクリプションなんて言葉初めて聞いたよ。二枚の絵を並べて比較してその造形的特質を述べよ的なやつかぁ、はぁ、俺はそれに6年もの間苦しめ続けられてたんだね。という会話をしたっけかな。まぁ、いいや、いずれにせよ、コレを見た瞬間イケる!いや、イった!と思ったのは間違いない。ただ、瞬間的に迷ったのは、あまりに膨大な作家が頭を駆け巡ったということだ。とりあえず、デュシャン、ルノワール、カンディンスキー、岡本太郎、そして内海信彦という我が師匠的な存在。造形藝術もいいが非造形藝術もいいな。音楽もいい、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ストラヴィンスキー、ジョイス、カフカもいいか。ここで五分くらい悩んだ。手持ちのコマがあり過ぎるのも困ったものだ。愛されすぎて、こまっちゃうなぁ~、と山本リンダを口ずさんだ、それぐらい余裕があった。ただ有名どころの方がいいんじゃないか?と一瞬おもねりかけた。そしてデュシャンやルノワール、岡本太郎は他の受験生と被るんじゃないか?とも思った。結局、ここが合否の分かれ目だったように今になって思う。私は内海信彦という、マイナーと言っては失礼だが、まぁ、まだ時代が彼に追いついていないだけではあるが、その彼を選んだ。こんな人を選んだら落とされるんじゃないか?みんな有名どころを書いてくるのに自分だけマイナーなものを選んで大丈夫なのか?不安が一瞬よぎり、シャーペンが一瞬止まりかけた。止まりかけたが、もしここで他のものを選んで落ちたら、それはそれで一生後悔する。だがマイナーな作家でも自分の魂が書けという、この作家を選んだほうが後悔はない。それでダメだったときはしかたねぇや!やった後悔よりも、やらなかった後悔を恐れたい。そう強く思った。そうしてまたペンを走らせた。もうペンは止まることがなかった。ただただ時間までカッカカッカと蒸気機関車の様に目標に向かって猪突猛進に走り続けた。止め!の合図がかかった時にはただただ達成感の蒸気のみが私の二つの大きく広がった鼻の穴から勢いよく噴出していた。心中にはただただ、やったぜぃぇぃぇぃぇぃぇぃ、というやまびこがこだましていた。


200点中125点だった。点数が私の意に反し意外に低いとも思ったが、やはり時代のエッジ(先端)を走る藝術はどんな時代も理解され得ないのだなとつくづくとも思った。時代が追いつくのを待っていよう。他の合格者に話を聞くとやはり、デュシャンもルノワールもいた。デュシャンに至っては3人もいた。デュシャンを書いたものの中から一人だけ選ばれるのかとも思ってはいたが、違ったらしい。いやわからん。デュシャンを書いたものが10人くらいいたのかも知れない。真相はブラックボックスの中である。  

まとめである。結局イイタイことは

決められたルール、枠の中で自己を十二分に表現せよ!

ということである。自分を表現するに決してためらうな!はじめは、おそらく君たちは理解されないかもしれない。けれども独り坊ちであることを恐れるな。友はやがて君たちのもとに訪れるのだから。

待ってるよ。桜の花咲く、上野の学舎で。一緒に勝利の美酒を酌みかわそうぜ!