2011年6月30日木曜日

ブログをメモに使う男

ツイッターのフォロワーが増えてくると、ツイッターをメモ代わりに使いづらくなった。tピうか今までメモ代わりに浸かってはいなかったわけだが、それにしてもまだ、いまだにブラインドタッチができていない。キーっボードを見てしまっている自分がいる。今もこうして手元を見ながら確認しつつ売っているが、ともすれば、もしみないでうったのらな。こんなかんっじfrでなにえおtrrtっゆっているのかわかんたなくなる。

ま、とりあえず、ゴッホのようにここで絵はメモ帳なんかの約すぁりをブログにまかせえることにしよう。

ツイッターは絵的にも美し来ように心がけよう。内容は単に呟きから。、こうしょうなことばまでうtぶやいていこう。内容は縛られないように。


メモ。



体育館:火の使用、プール、ホタル、花火、ろうそく、屋外楽器演奏、繋がる藝術、うまいビール、蚊取り線香、せみ、生きるとは平和じゃない。不良。第一回藝祭、第一講義室の熱気、居づらい。確かに聴きに来てくれるかもしれないが、ただ来てなんかやってんな。ふぅ、空気悪いし帰ろ。いつく。居心地のよさ。タダ酒、タダ食い。告知次第で来てくれる。パネリストがばらけて話すこともできる。距離。講義室遠い。体育館近い。権威とフラット。ラウンドテーブル。丸くなって話すことができる。ゆーすとりーむ。一般の客に興味を持ってもらうこと。第一講義室は楽。楽をしてはいけない。そこまで来てくれるようにするのが俺らの仕事。ゆーすとりーむ。城先生に聞く。らいとあっぷ。非日常。祭り。俺たちにしかできない。闘い方。次の世代につながる。


まっくほしい


ネットをネットで調べることができる。ふりーずしたとか、なんとかね、うぃんどーず、ふりーず、対処、とかでね。ユーストリームは大丈夫な気がする。ネットをメモ代わりに使うこともできる。つまりアイフォンいいな。常にメモ代わりに。

優等生でいるよりも、僕は不良でいたい。

ぱんふは超挑発的に書くこと。

ひよってはならない。けっして。試されるのは覚悟。




今考えてるのは池田委員長の伴奏で茂木さんが尾崎豊をうたって開幕するのを考えてる。尾崎は茂木さん大好きだからね。

そして天才論について、最終日の。


天才はなぜ生まれるのか?俺は天才の出現には美は欠かせないものと思ってる。藤原正彦が国家の品格の中で言ってたことなんだけど茂木さんもそれにものすごく賛同している。

天才は、極めて生まれにくいから天才なのであって、かつ天才にはその出現状況が背後にはある。

第一講義室からは多分、天才は生まれない。

生まれるとするのなら、やはり美しいところからなはず。単なる天才についての話をするだけなら、場所はどこでもいいのだが、天才がそのシンポジウムから生まれることを企図するのなら、やはり体育館になると思う。第一講義室の美も自然の大イチョウの美の前には勝てないと思う。大イチョウをライトアップしたり、花火やキャンプファイヤーをしたり、上野公園にある広島原爆の、今も燃え続ける火で蚊取り線香を付けたりもできる。

旧来のシンポジウムの方を壊すとどうじにお酒も飲みながら話す訳で、大一講義室よりもやっぱビールは屋外で飲む方がいいっしょ。それにホタルも話そうかと思ってる。そう、すなわち、日本から天才が生まれるのなら、日本という文脈を背負わなければならない、ということが裏テーマである。これは茂木さんも言っていることで。実際茂木さんは何度も第一講義で講義をしているから茂木さん自身にとっても斬新さがないはずだと思う。もちろん、祭りの祝祭感はあるけれども。そして、アインシュタインが言っていることだが、“自由な環境”からこそ天才は生まれるということ。自由な環境はやっぱり中庭だと思うんだよなぁ。みんなと同じことをしている人間が天才になれるかな?みんなが講義をしっかり聞いているのなら、自分は自分の好きなことに没頭する。人と違うことをしなければ、というか特殊な環境でなければ天才は出てこないのではないかな?まぁ、こpれはちょっと俺の天才論も入ってるけれどもね。

みんなでキャンドルナイトもできるし、死者の鎮魂もできる。第一講義室でもできるが、やっぱり絵にならないし、煙草も吸えない。そとならタバコも吸えるわけだよ。タバコの吸えるシンポジウムって聞いたことある?


また茂木さん自身、リスクをとれ。と常々言っている。俺たちがとれるリスクってなんだろうか?第一講義室で例年と同じくらいの客を集客して、あぁ、楽しかったねでいいのだろうか。第一講義室なら誰がやったって成功させることができる。おれはそれがリスクをとる行為だとは思えないんだ。俺たちがとるリスクは失敗するかもしれないけれども、とにかく“やってみる”ことなんじゃないかな。りくつぬきでとにかくやってみる。それがジョブスであり、ザッカ―バーグであり、ジュリアンアサンジュなんじゃないかな。

またさらに、茂木さんが言ってることで、本当に面白いものはしっかり人はついてくるということ。俺たちは、はじっこで好きにやってるよ。来たけりゃおいで。誰でもウェルカム。ということ。

目的は対話型シンポジウム。かつ新しいシンポジウムの形を社会に提示すること。これがユーストリームで全国に流れ、そしてこれがそのリスクをとるシンポジウムの先駆けになればいいと思う。

ラストにはみんなで15の夜を合唱するのもいいと思う。第一講義室よりは、中庭の方がみんな大声で歌ってくれるんじゃないかな。心身一元論の立場からもね。心身の状況が心を形作る。学びの場は講義室にあるのではない。学びの場はどこにでも溢れている。シュタイナー系の教育原理ということ。


不良ははじっこでいいんちゃう?中心がいいってのもわかるんやけどね。どっちかっていうとむしろ内海先生の方が第一講義室の方がいいかもしれないとも思ってきてしまった自分がいる。。。

ちなみに尾崎豊の詩読んでみて。

卒業

校舎の影 芝生の上 すいこまれる空
幻とリアルな気持 感じていた
チャイムが鳴り 教室のいつもの席に座り
何に従い 従うべきか考えていた
ざわめく心 今 俺にあるものは
意味なく思えて とまどっていた

放課後 街ふらつき 俺達は風の中
孤独 瞳にうかべ 寂しく歩いた
笑い声とため息の飽和した店で
ピンボールのハイスコアー 競いあった
退屈な心 刺激さえあれば
何でも大げさにしゃべり続けた

行儀よくまじめなんて 出来やしなかった
夜の校舎 窓ガラス壊してまわった
逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった

信じられぬ大人との争いの中で
許しあい いったい何 解りあえただろう
うんざりしながら それでも過ごした
ひとつだけ 解ってたこと
この支配からの 卒業

誰かの喧嘩の話に みんな熱くなり
自分がどれだけ強いか 知りたかった
力だけが必要だと 頑なに信じて
従うとは負けることと言いきかした
友達にさえ 強がって見せた
時には誰かを傷つけても

やがて誰も恋に落ちて 愛の言葉と
理想の愛 それだけに心奪われた
生きる為に 計算高くなれと言うが
人を愛すまっすぐさを強く信じた
大切なのは何 愛することと
生きる為にすることの区別迷った

行儀よくまじめなんて クソくらえと思った
夜の校舎 窓ガラス壊してまわった
逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった

信じられぬ大人との争いの中で
許しあい いったい何 解りあえただろう
うんざりしながら それでも過した
ひとつだけ 解ってたこと
この支配からの 卒業

卒業して いったい何解ると言うのか
想い出のほかに 何が残るというのか
人は誰も縛られた かよわき小羊ならば
先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか
俺達の怒り どこへ向かうべきなのか
これからは 何が俺を縛りつけるだろう
あと何度自分自身 卒業すれば
本当の自分に たどりつけるだろう

仕組まれた自由に 誰も気づかずに
あがいた日々も 終る
この支配からの 卒業
闘いからの 卒業

15の夜

落書きの教科書と外ばかり見てる俺
超高層ビルの上の空 届かない夢を見てる
やりばのない気持の扉破りたい
校舎の裏 煙草をふかして見つかれば逃げ場もない
しゃがんでかたまり 背を向けながら
心のひとつも解りあえない大人達をにらむ
そして仲間達は今夜家出の計画をたてる
とにかくもう 学校や家には帰りたくない
自分の存在が何なのかさえ 解らず震えている
15の夜
盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま
暗い夜の帳りの中へ
誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした 15の夜

冷たい風 冷えた躰 人恋しくて
夢見てるあの娘の家の横を サヨナラつぶやき走り抜ける
闇の中 ぽつんと光る 自動販売機
100円玉で買えるぬくもり 熱い缶コーヒー握りしめ
恋の結末も解らないけど
あの娘と俺は将来さえ ずっと夢に見てる
大人達は心を捨てろ捨てろと言うが 俺はいやなのさ
退屈な授業が俺達の全てならば
なんてちっぽけで なんて意味のない なんて無力な
15の夜
盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま
暗い夜の帳りの中へ
覚えたての煙草をふかし 星空を見つめながら
自由を求め続けた 15の夜

盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま
暗い夜の帳りの中へ
誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした 15の夜

僕が僕である為に

心すれちがう悲しい生き様に
ため息もらしていた
だけど この目に映る この街で僕はずっと
生きてゆかなければ
人を傷つける事に目を伏せるけど
優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく
僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる

別れ際にもう一度 君に確かめておきたいよ
こんなに愛していた
誰がいけないとゆう訳でもないけど
人は皆わがままだ
慣れあいの様に暮しても 君を傷つけてばかりさ
こんなに君を好きだけど 明日さえ教えてやれないから

君が君であるために 勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
君は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる

僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる

いいねぇ。うん、沁みる。
茂木さん、カラオケ歌ってくれるし。カラオケのあるシンポジウム、ギリシャでは当り前に行われてたこと。がちがちのシンポジウムに誰が風穴を開けるんだい?それは俺たちをおいて他にはいないだろう。そして最後に全員で故郷でも、15の夜でもなんでも大合唱するのって最高じゃないかな。
やっぱり中庭いいと思うんだよ。不良の代名詞だし。体育館の裏って。

優等生でいるよりは、俺は不良でいたいな。

2011年6月28日火曜日

なぜ詩を紡ぐ?

詩にできることは語り継ぐこと。

詩にできることはその当時のツァイトガイストを記憶すること。その事象を雄弁に語ること。

そして若干のヒロイズムに浸ること。



なぜ詩を紡ぐか。それは本能だから人間の。

表現に坩口令は敷けない。ブラックジョークをなぜいう?それは思いついちゃったから。単純に。

悪意はない。あるとすればそれは認識の木の実を食べたものが悪いとしか言いようがない。



詩にできること。言葉ではなく、詩だからこそできること。

感動こそが人を動かす。それができるのは言葉ではあるけれども、言葉ではない。


藝がなければ言葉は詩にならない。

言葉が藝の翼を得た時、その言の葉は天に向かう。



悲しみは疾走する。涙は追いつけない。悲しみから希望へコトバは虹になる。


人よ。紡げ。汝が言の葉を。


永遠に語り継がれる為に。そして、一瞬に露と消える為に。




その言の葉は木霊する。この先人類が滅び、宇宙が消滅した、そのあとにも。


きっときっと。


君が涙の波紋の為に。

茂木さんの真似、朝ダッシュ!

  1. 実技の、とりわけ油画のフォロワーが増えてきたことを受けて。
    俺の立場を明確にしておく。


    ”頭スカスカの実技、ウンチしか描けない藝学”という言葉もあるようだが、たしかにそういう面もある。だがやはりこれは一つのステレオタイプでしかない。日本人はみんなメガネで出っ歯的な。
    実技系が“お勉強”ができないからといって”考える”ことができない訳ではない。“お勉強”ができなくたって、しっかりと“感じ”そして“考え”ているやつらもいる。簡単に括れやしない。それはどんなことも同じ。
    自分の無知を棚に上げ、浅はかな牙城に閉じこもってばかりいては本質を見誤るぜ。相手が何を感じ、何を考えているのか、傷つけ合うことになるかもしれないけれども、対話するしかないだろ。なぁ、諸君。
    作品の批判は作品の否定ではない。批判とはもっと“いいもの”にする為の共同作業。作品=人格ではないのだから、作品を批判されて自分の存在が否定されると思っているのならば、それは大きな勘違い。それに君の存在を否定できるほど、ぼくはそんなに偉くない。し、そんな奴には死んでもなりたくない。
    とりあえず、俺の“描く”ということの定義。


    全宇宙への咆哮

2011年6月27日月曜日

叶恭子 3P

叶恭子のとりリズムを読んだ。


寮生の誰かがおいて言ったものだ。彼女も今は卒業してどこかで生計を営んでいる頃だろう。顔も知らぬ誰かさん、おそらくは音楽学部の彼女。一緒においてあった本は音楽系だったから。他にもあったのはスローセックス入門、アダム徳永著。女の子は下ネタが嫌いとか何とか言ってやっぱり知りたいは止められないのよね。うん、だって人間なんだもの。みつをってか。


ここで叶恭子の名言を紹介

私の体はラブパワーでできています。

パーティーは甘美なオーラを体にまとって。

人はオーラのある方角に目を向けます。それが人の習性です。

出会いの瞬間、ラブの天使は私の傍らにいます。3秒以上の熱い視線で見つめながら何かを感じ取った瞬間に目をそらす。

財力には一瞬でラブを生んでしまうパワーがあります。

ルックス、資産状況、無償の愛の二つ以上に当てはまることが私の愛の条件なのです。

ボディはすべての場所がアートです。

すべてを知り尽くした、ラブファンタジーワールド。

セックスは愛の藝術です。

何度あったらメイクラブしてもいのですか?という質問をうけますが、はっきりいいますと、そんな質問自体がおかしいと思います。自分にとってしあわせをもたらしてくれると感じたら、初めて出会ったタイミングでもよいと思いますし、少しでも不安があればやめた方がよい。

もしも、あなたが今よりもヴァギナを、コントロールしやすくしたのならば、その手順をお話ししましょう。

ペニス、それはすでに別の生き物なのです。

オス度の高い男性ほど多くの種をまきたがるのです。

とくに知的レベルの高い人、好奇心の旺盛な人、欲深い人は、早めにセックスをしていしまうと、もう相手は要らなくなってしまうケースが多いものです。

本物の男性を見抜く力を付ける為には普段の生活から、どれだけの“本物”に数多く触れているかと深い関係があると思います。絵でも音楽でも。文学でも建築でも、ファッションでも、お料理でも、宝石でも、、、、本物はここが違うという感触をキャッチする本能的なセンスを養い、美しさを愛し続けることしかないでしょう。つまり、よいものを見抜く力を養うには経験と知性が必要なのです。


叶恭子、恐るべし。

2011年6月24日金曜日

びーこけん

藝大の閉鎖的な授業。


基本的には講義は学生の為の者であって確かに解放されるべきものではないのかもしれない。

プライオリティーとしては一に学生、二に社会の為なのかもしれない。


実技の授業を見学したいといっても基本的には見ることができないとのこと。

学科の授業は基本的には見れないとのこと。


なんか違和感。


みたい奴には見してやればいいのにと思う。なんなら別室でモニターを付けて開放すればいいのにと思う。

プライオリティーはたしかに学生でもいいかもしれないが、それでもボイスのような自由大学構想が俺は好きだ。学びたい奴が学ぶ、その為にその学ぶ資格、ここではある組織の属してないという意味、のないものでも、そいつが正規の学生の邪魔、人数的なもの、人口密度なども考慮にして邪魔になるのなら締め出してもいいと思うが、とりあえずは基本的にウェルカムであるべきだと思う。


藝術ってもっと自由なんかじゃないかな。

誰の為にプレゼンをやるか?それは藝学2年の為であると同時に、社会の為でもある。そして何よりも第一には自分の為にやっている。


今日の事件が藝大の閉鎖的な体質を変えるきっかけになればいいと思う。


ぺーぺーな藝学の2年のプレゼン、俺のは別にしても、そんなできの悪いものを本気でみたい人間なんてほぼ皆無だと思う。きたらきたで見せてやりゃいいのにって思う。

多くの人に見られ、批判されることにこそ意味があるのだ。



ただ確かに外部の人がいると緊張するってのはある。なんか落ち着かない感が漂う。


だがただ存在する権利は誰にでもあるはずだ。そのそこい存在する権利をはく奪することは俺にはできない。


実技のヌードにこれをアプライしてみると、ちょっと教授や助手さんの言っていた意味がわかる。わかるがこれはヌードモデルのデッサンではない。たんなるプレゼンである。そこが大きな違いである。




もっと風通しのいい空気を藝大に入れたい。藝大というか、日本に入れたい。


ぼくのプレゼンレコーダーに録っておきました。聞きたい方はデータで送りますんで。よろしくね。



プレゼン自体は最高のクオリティーを誇ってるはず。プレゼンの最中に音楽を流すのも俺が初だろう。ボイコットしていたら留年だったのだろうか、謎だ。



いずれにせよ、空気を悪くして次の女の子に引き継いでしまったのは良くなかったかな。。。




ま、それも含めての安土・桃山の時代精神なんだよな。実はそれを含めた上でのプレゼンだったのだ!!!


どうだ!まいったか!



ぼくは馬鹿だから反省なぞしない。



小林秀雄

2011年6月20日月曜日

著名人との距離

著名人との距離は一見すると近いようで、ともすると遠い。

なんやかんやで、身近なお笑い芸人でさえ、一般人からみれば、その距離は月と地球さえ違う。



第一線で闘い続けたものの経験知は、第一線に近づこうとしたものしかわからない。


誰も見ず知らずの、雑草のような存在からスタートして、今では誰しもが見る花となる。

世間は花しか見てくれぬ。


誰も雑草は見ないのだ。


誰も花の下にある、根を見ないのだ。



見えるけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ。


俺はまだ雑草。

しかし、すでに根は十分生えている。


多分花だ。すでに。

しかし、その花が気付かれにくいところに咲いている。

だれかぼくをみつけて。そしてそっと表舞台に、人の見えるところにおいてくんなまし。



ということをいったところでそこらのブロガーと何も変わらない。これぐらいかけるやつはごまんといることを俺は痛切に痛感する。ともすればこれくらいなら小学5年生くらいでも書けるのだ。

ここから抜け出るのは、努力、努力と、リスクをとれる勇気、一歩踏み込む勇気だ。




俺は今、何者でもないが、すでにビッグである。気付かぬものが悪いのである。

気付け!

見よ!


ここにある一輪の花に!



さ、ここからが出発だ。


れっつらごー!



というか、もうすでに出発しているけれどもね。


ブラインドタッチを覚えたい。

2011年6月16日木曜日

うつくしきかな

獣と人間を分けるものは、花を愛でる心である。

美しきものを求めることは、その人間の心の美しさを表わす。




今日は皆既月食。








みんなが月を愛でますように。

2011年6月12日日曜日

だから私は嫌われる

俺は嫌われている。


それは真理を突くからだ。


隠しておきたい当人の湿ったなぁなぁな穢いところの真実を白日の下に照らし出すからだ。



真実の道は山顚の道に似ている。どちらも常人には歩きづらい。



その道をただただ独り孤独に歩み続けたい。林の中の象のように。




いずれ来る友を待ちながら。

最近思うこと

藝大は攻めてねぇ。教授はゴミだ!等とさんざん吹聴していたが、それは天下に己が無知を吹聴しているに過ぎなかった。

無知はコワい。

しっかり調べ、自分で見たこと、聞いたこと以外はしっかり批判できないとドつぼにはまる。



藝大にはなかなかもって素晴らしい先生がしっかりいる。教授はゴミだゴミだというのは簡単。どこがごみなのかしっかり批判できないところには生産的でなくなる。ただの不満たらたらたらちゃんになるだけ。

教授の保守的なところ、具体的には先例踏襲で新しいことに踏みきれないところなどは確かに批判できるが、その彼らの学問に対する厳密さ、科学的に、客観的に論証できないことには言及しないといったところにはその深い美意識を感じさせられる。その造形の、教養の深度はなかなかのものである。


藝大では最強だと思っていた俺だが、井の中の蛙だった。

たとえるなら、今の俺はフリーザの時の悟空だとして、ほかの藝大生はたいてい天下一舞踏会の、ヤムチャとかが結構強かった時代のメンバーで、俺は天狗になっていたら、俺なんかよりもめっちゃ、ちゃ~ら~、へっちゃら~強い、セルゲームやマ魔人ブウクラスの時代のメンバーばかりの世界があることを知った。教授は強い。確かに強い。その強さを押し測られるだけの強さが身に付いたということなのか。すごい人間のすごさがわかるには、当人が強くないといけないのかもしれない。


当人自身が強くなることが一番のスカウタ―なのかもしれない。



また消費する・されるの関係について。


世の中のほとんど全てが消費する・されるの関係だ。都合のいい時に、都合よく消費されあう。それを互いに求めあう。

ここで消費されない関係とはいったいどういうものなのかという考えが起こる。


一番に思いついたことはメロスのような友情、掛け値なしの友情ということだ。

さらに家族間のつながり。


つまり、打算なき人間関係はその消費の関係を凌駕するのだ。


あかちゃんを抱く母親に打算はない。本能がすべて消費するされるの関係だと仮定したら、一切すべての、経済、モノの移動、諸々すべてが消費する・されるの関係で捉えられる。



また


ものの考え方の批判が人格の否定であると思われていることだ。

ものの考え方は人格ではない。藝術作品が作者の人格ではないように。

それを勘違いしているから互いに批判できなくなる。傷つけあうことを恐れていては何も始まらない。



がんがん互いのエステティクスを激しくぶつけあって、血管浮き出るくらいに、口角に唾し合いながら議論する。その後に、そいつとふつーに何もなかったかのように一緒に飯を食いに行く。俺ならそうする。


      望まれるのは欧米型思考。





これっておかしい?


ただぶつかることを恐れて、なぁなぁにしてきた結果が原発やその他もろもろのすべての“歪み”につながっている気がしてならない。


もっと激しくぶつかりあおう!もっと互いを批判しあおう!


なぁ、そう思はないか、諸君!

2011年6月10日金曜日

久々のあっぷ

自分は自己顕示欲の塊だと核心を突かれた時にはグサッときました。たしかに今自分は何者でもない。これから自己投企していくしかないのだなと思いました。有名になりたい。俺を見てくれ。俺を見てくれ。では誰も見てはくれないのだ。おっしゃる通りでした。

限りなく無私であろうとしつつも、完全な無私にはなりえないのかなとも思いました。来歴やベルグソンのいうような記憶=魂から思考のパラダイムが逃れられないとも思いました。先生と話すことで自分が見えました。うすうす気づいていたことですが、自分は世界の痛みよりは自分のささくれを第一に考える人間だということです。いいこちゃんぶっても、やはり世界の痛みに耳をすませるよりも、自分のしあわせを第一に考える男なのだと痛感しました。イエスにはなれないということを痛感しました。はぁ、なんて穢い存在なのでしょうか。草枕な気分です。

努力!努力!努力!自分と闘って個性を掴み取りたいと思いました。戯れるのではなく。

また消費されることについても考えさせられました。

この世界のたいていのものごとが消費される、するの関係で回ってるように思えました。

そこで考えましたのが、消費されない関係とはどういうことかということです。

打算がもっとも打算のない行為だと芥川がいっていましたが、誰かを利用するされる、といったことから人間は逃れることができるのでしょうか。

そのほかたくさんのことを考えさせられました。


随想みたいなものを送ってしまいました。やはり自己顕示欲の塊なのです。これが現在の自分です。こどもです。がきです。感じたことを誰かに伝えたくなる病なのですね。




消費されるとはその場限りの瞬間的な快体験のことをいうのか。つまり消費されない人間関係とは、長く付かず離れずで付き合い続けるということなのか。腹6分の付き合い。

友情は、メロスのようなものでない限り、すべて消費される関係といっていいのか。打算があったら、それは消費なのか。打算もありつつ、時になくというのは、それは半消費関係なのか。

好きな人に近づくのは、下心のあるなしをとわず、自分を磨く為でも、自分を磨くっていうこと自体打算なのかもしれないですが、つまりは世界の為というよりは、自分のために、たんに面白いから、知識、教養が身につくからという理由などから、興味のある人物に近づくことは消費関係になるのか。またそのスパンしだいで消費関係でなくなるのか。

基本的に金銭で換算されるものが消費関係になるのか、

また瞬間的な消費関係でも、本人の意識、無意識下で気づかぬうちにベルグソン的な魂の一部を形成した場合、それも消費になるのか。

形式が内容以上に内容を表わすの意味が少しだけわかってきました。云々。